ホンヤクこぼれ話


第111回『駅伝マン 日本を走ったイギリス人』の巻
今回は、濱野大道さんが翻訳を手がけた、『駅伝マン――日本を走ったイギリス人』をお届けします。外国人が日本について書いたものを訳す際には、独特の難しさがあると聞きますが、今回の作品はどうだったのでしょうか。訳者の濱野さんにうかがいました。
『駅伝マン――日本を走ったイギリス人』
濱野大道【訳】
アダーナン・フィン【著】
早川書房

イギリスのジャーナリストであるアダーナン・フィン氏が、日本の駅伝やマラソンの世界について取材したスポーツノンフィクション。
「日本のランニング界では何かすごいことが起きているらしい」と来日したフィン氏は、京都に家族とともに半年間滞在。そのあいだに箱根駅伝、実業団チーム、比叡山の千日回峰行などを体当たりで取材する。なぜ日本では、これほどマラソンや駅伝が愛されているのか? なぜ日本は、高速ランナーだらけなのに世界で勝てないのか? フィン氏の導き出した答えやいかに?
●訳者の濱野さんに聞きました。

この本を読むと、マラソンや駅伝、陸上競技の見方が
変わるかもしれません

──まずは作品の読みどころを教えてください。
濱野
さん:
フィンさんは、ケニア滞在経験をまとめたデビュー作『Running with Kenyans』でさまざまな賞を受賞して注目を集めたスポーツライターです。前作は、ケニア人マラソン選手の練習に自ら参加して彼らの強さを探るというルポでしたが、今作はその日本版というところでしょうか。この本を読むと、マラソンや駅伝、陸上競技の見方が変わるかもしれません。ぼく自身、原書を読んでから世界陸上を観たのですが、これまでとはまるっきり見方が変わりました。日本のランニング界に関するフィンさんの指摘には、日本の読者にとって頭の痛い内容も含まれていますが、じつに示唆的です。
──日本のランニング事情に一石を投じる作品としてもおもしろいですが、いち外国人ランナーの日本紀行としても魅力的ですよね。
濱野
さん:
はい。日本のランニング界に興味を持ったフィンさんは、日本語をほとんど話せないというのに、子供3人と奥さんを連れて(なぜか)シベリア鉄道で日本にやってきて、京都に半年間住み、子供たちを日本の学校に通わせます。そういう点では、外国人の日本ドタバタ滞在記としても、おもしろく読むことができます。
また、フィンさんが京都の寺の住職や千日回峰行を満行した大行満阿闍梨をまえに「走ることの意味」を語るシーンは、内容も哲学的で表現もとても美しく、今作でぼくがいちばん好きな場面です。
──翻訳を依頼された経緯を教えていただけますか?
濱野
さん:
去年から今年にかけて早川書房さんで何冊か翻訳を担当させてもらっていたので、おそらくその流れで今回もお話をいただけたのだと思います。今年の4月に発売になった『黒い迷宮:ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』もイギリス人のジャーナリストが日本について書いた作品だったので、同じ系統だからという理由で依頼をいただけたのかもしれません。
じつは以前、持ち込み企画をする作品を探してみようと考えて、イギリスのアマゾンで日本関連の本を調べたことがありました。そのときに、いちばんおもしろそうだったのが『駅伝マン』の原書である『The Way of the Runner』だったんです。その直後にこの作品の翻訳依頼をいただいたので、何か運命的なものを感じましたね。
──スポーツものを翻訳なさるのは今回がはじめてかと思いますが、もともとスポーツはお好きだったのですか?
濱野
さん:
やるのは苦手ですが、観るのは大好きです。テレビで観るのはもちろん、テニスやゴルフ、フィギュアスケートなどをたまに実際に観戦にも行きます。テニスの4大大会、世界陸上、サッカーのワールドカップ、オリンピックなどの期間中は仕事を調整して(会社勤めしていたときは、こっそり有給休暇を取って)ずっとテレビにかぶりついて観戦するほどなので、この作品の依頼をいただいたときはとても嬉しかったですね。
──翻訳作業についてもお聞かせください。まず、かなり軽いトーンでさっと読みやすく訳している印象を受けたのですが、これは翻訳で意識なさった部分でしょうか?
濱野
さん:
ご指摘のとおり、とにかく「軽く」「読みやすく」ということを心がけました。原文を読んだときに、英語も平易でとても読みやすく、くすっと笑うシーンが多かったので、日本語でもその雰囲気をなるべく再現しようと考えました。
──原文の独特の表現などで、苦労した部分はありますか?
濱野
さん:
じつはこの作品、原文はすべて現在形で書かれているんです。どう訳すか迷いましたが、文学作品ではないので、読みやすさを優先して日本語では過去形で訳しました。
それから、この作品で最も苦労したのは……というか、おそらく出版系の翻訳者にとっては誰もがいちばん苦労するところのひとつだと思いますが、描出話法をどう訳すかということでした。今作は一人称で書かれた作品なので、正式に「描出話法」と呼んでいいのかはわからないのですが、フィンさんは引用符を使わずに地の文で会話を進めるのがお好きなんです。場面全体がほぼこの手法で進むところもあり、とても苦労しました。じつは、これはぼくとしては初の試みなのですが、今作ではとにかく読みやすさを重視したほうがいいと思ったので、一部だけ実際の台詞に変えてカギカッコに入れました。ただ、もちろん描出話法独特の迫力も活かしたかったので、そのまま訳した部分もたくさんあります。
──日本を題材にした本は、事実関係の確認などに非常に気を遣うと思いますが、そのあたりでの難しさもあったのではないですか?
濱野
さん:
日本関係の訳書は今回で2作目ですが、やはり情報の裏取りが大切だと考えています。日本モノの場合、まちがった情報はファンや関係者にはバレバレだと思いますし、せっかく著者がおもしろい考察をしていても、基となる情報がまちがっていると読者も興ざめしてしまうと思うので。日本関連の作品を訳すときには、いつも以上に情報のファクトチェックに気を遣います。
──この本には、当然ながら日本人の登場人物がたくさんいらっしゃいます。一般の方などは、名前の漢字を調べるのは大変だったのではないですか?
濱野
さん:
ネットで調べがつかなかったお名前の漢字表記や本文のファクトチェックに関しては、本書内の主要な登場人物でもある立命館大学男子陸上部コーチの高尾憲司さんや、フィンさん一家の隣家のご主人(その家の奥様が本書内で頻繁に登場します)と直接メールでやり取りしてお伺いしました。こちらが質問したこと以外にも、いろいろと補足情報まで教えていただけたので、本当に助かりました。また、編集作業中は、ぼくがゲラをチェックするのと同時進行で、編集者の方が関係者や著者に連絡を取り、追加のファクトチェックをしてくれました。
──ちなみに、ランニング本を訳すと自分もランニングにはまってしまうという話を何度か聞いたことがあるのですが、濱野さんはどうだったでしょうか?
濱野
さん:
原書を読みおわって訳すまえに、本作にも関連するクリストファー・マクドゥーガルの『BORN TO RUN 走るために生まれた〜ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』や村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』などを参考文献として読んだのですが、その時点でもう走りたくなりました(笑)。訳しはじめたら、さらに走りたい衝動がふつふつと沸いてきてしまって……実際に走りはじめました。とはいえ、まだ5キロ程度なので、お恥ずかしい話ですが……。
──やっぱり! 本書は、ベアフットランニング理論などランニングに関する持論が展開されていて、ランナーにとってはヒントになる部分も多そうですね。
濱野
さん:
はい。本書では走るコツがたくさん披露されているので、ぼくもそれをマニュアル代わりに使っています。なるべく舗装路を走らない、事前にストレッチをしない、踵着地しない、大きなストライドを心がける、腹式呼吸を意識する……などなど。将来的にはもっと訓練して、ハーフマラソンくらいには挑戦したいですね。
──ありがとうございました。最後に、学習中の方へのメッセージをお願いします。
濱野
さん:
厳しい世界ですが、ぼくとしては、運よく巡ってきた眼のまえの仕事にコツコツ取り組むしかないと思っています。いっしょにがんばりましょう!
濱野大道さんのプロフィール:
翻訳家。『駅伝マン――日本を走ったイギリス人』、『黒い迷宮 :ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』、『クロニクル〈2〉〈4〉』(以上早川書房)、『暴露 :スノーデンが私に託したファイル』(共訳、新潮社)、『信じてほしい』(武田ランダムハウス)など。
濱野さん、ありがとうございました。濱野さんのおっしゃるとおり、日本の「体連」出身者にとっては耳の痛い話ばかりの本作ですが、同時に納得のいく意見が多く含まれているのも印象的でした。現在は駅伝シーズン真っ盛りですので、観戦の前後にこの本を読めば、見方が変わるかもしれませんね。

(written by Takasaki)
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