ホンヤクこぼれ話

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第128回『AFTER season2 壊れる絆 #4』の巻
今回は、栗木さつき先生が翻訳を手がけた『医者は患者をこう診ている 10分間の診察で医師が考えていること』をお届けします。イギリスの身近な医療の在り方を映し出したこの作品、プライマリ・ケアやGPといった馴染みの薄い言葉も出てきますが、そこも含めて訳者の栗木先生にうかがいました。
『医者は患者をこう診ている
10分間の診察で医師が考えていること』

グレアム・イーストン【著】
栗木さつき【訳】
河出書房新社

身近にあって、あなたとあなたの家族のために何でも相談に乗ってくれる総合的な医療保健サービス、それがプライマリ・ケア。本書では、イギリスでこのプライマリ・ケアの専門医、通称GP(家庭医)を務めるグレアム・イーストン医師の典型的な午前を臨場感たっぷりに描き出す。胸の痛みに直腸出血、喉の痛み、妊娠能力など、さまざまな悩みを抱えた年齢も性別も異なる人たちに、イーストン医師はどう向き合うのか? 患者さんと相対したときに医師が何を感じ、どう診察を進めているのかを教えてくれる作品。
●訳者の栗木先生に聞きました。

専門的な内容はどの分野でも出てくるもの、
著者が伝えたいことを第一に考えて翻訳した

──まずは、本書について簡単な解説をお願いします。
栗木
先生:
本書は、イギリス在住のGP(家庭医療・総合診療医)であるグレアム・イーストン医師が綴ったエッセイです。ある日の午前中、イーストン医師は17人の患者を診察します。どの患者も、それぞれまったく異なる症状を訴えます。胸が痛い、発疹がかゆくてたまらない、赤ん坊が苦しそうでミルクを飲まない……。イーストン先生は患者と慎重に会話をし、ていねいに診察を進め、約10分という限られた時間で、的確に診断をくだしていきます。
診断をくだすにあたり、試行錯誤を重ねるプロセスが正直に綴られているため、短い推理小説を読むような楽しさもあります。また著者が率直に心情を綴っているため、医師の苦悩ややりがいをうかがい知ることができます。
また邦訳版には、「日本の読者のみなさまに」と題された部分があり、著者が日本の読者に向けてわざわざ加筆してくださいました。やはり、医療システムがイギリスと日本では異なるため、説明が必要だとお考えになったようです。そのあたり、とても思いやりのあるイーストン先生らしいご配慮だと感服しました。
──プライマリ・ケアについて、あまり馴染みのない方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単な解説をお願いできるでしょうか。
栗木
先生:
わかりやすく言えば、身体の調子が悪くなったとき、軽いケガをしたとき、わが子が病気になったとき、あるいは気持ちが滅入るなど心の不調を自覚したとき、専門の科によらずに、自宅の近所にある診療所で、心身のあらゆる面を診てもらえるシステムがプライマリ・ケアです。そして、このプライマリ・ケアを専門におこなう医師をGPと言います。つまりGPとは、眼が痛くなったときも、妊娠したときも、関節が痛くなったときも、うつ病を患ったときも、患者が最初に頼りにする医師なのです。
日本では、内科、眼科、皮膚科、外科、整形外科、小児科、産婦人科など、専門によって病院が分かれていますが、イギリスのプライマリ・ケアでは、具合が悪くなったときにはまずGPに診てもらいます。そして、GPが「専門医の診察が必要」と判断した場合、それから専門医に紹介してもらいます。
患者によっては、長年、同じGPに診てもらえる場合もありますし、家族ぐるみで同じGPに診てもらうこともあります。
──翻訳を手がけることになった経緯を教えていただけますか?
栗木
先生:
この作品は、出版社からリーディングの依頼がありました。レジュメでは「文章は歯切れがよく、テンポよく進むので、非常に読みやすい。面白かった」と感想を述べると同時に、全体の量が多いこと(実際に刊行された邦訳は単行本で440ページとなりました)への懸念にも触れていました。ですから、長さがある(本の価格が高くなる)にもかかわらず、河出書房新社が版権を獲得し、私に翻訳を依頼してくださったときには、とても嬉しかったです。
──翻訳作業についても、いくつかお聞かせください。まず、栗木先生はもともと医療系の分野を専門になさっていたのでしょうか。
栗木
先生:
私自身、とくに科学や医療関係に詳しいわけでも、もともとサイエンスが大好きだったわけでもありません。サイエンス作品を初めて翻訳させていただいたのは、2001年に単行本で刊行された『わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか――インチキ! ブードゥーサイエンス』です。まだリーディングに慣れない頃に「面白い!」と私がレジュメで推した作品だったので、その後、アメリカでベストセラーになり、ほっとしたことをいまでもよく覚えています。著者はアメリカの著名な物理学者で、巷に横行するニセ科学に警鐘を鳴らしています。文章は読みやすかったのですが、専門的な内容もありましたから、訳出する際には物理学の入門書などを読み、必死で勉強しました。この作品がきっかけとなり、サイエンス系の作品の依頼が増えたように思います。
──では、本書の翻訳で特に苦労なさった部分はありますか?
栗木
先生:
本書『医者は患者をこう診ている』に関しては専門用語が頻出したため、日本の医学生が国家試験の勉強に使うような各科の参考書を購入して勉強しました。訳出しているあいだは、とにかく医療関係の勉強で手一杯で、ほかの本がほとんど読めませんでした(苦笑)。
──本書もそうですが、医療関係の作品を翻訳する際に気をつけているところはどこでしょうか。
栗木
先生:
医療の世界を描いた作品ですから、医療の専門用語が出てくるのは当然ですが、本書ではまず、著者が読者になにを伝えたいのか、その点をもっとも重視して訳出するよう心がけました。専門用語が出てくるとはいえ、ひとりの人間が綴ったエッセイですので、著者の人柄ができるだけ伝わるように努めました。
経済・軍事・ビジネス・芸術……。どんな世界を扱った作品であろうと、専門用語はでてきます。医療関係の作品だけが特別であるわけではなく、訳出上の苦労や工夫は同じだと思います。専門用語があるにもかかわらず、読者の心に訴えかける作品には、作品そのものにそれだけの力があるわけですから、訳者はその魅力を最大限に伝える努力をすればいいのだと思います。また、その分野にくわしくない訳者が翻訳すれば、訳している本人にも訳文を読んだだけでわかるようにする、つまり読者にできるだけわかりやすく情報を伝える努力もできるのではないでしょうか。
また、著者が医師である場合には、患者の力になりたいという強い思いが作品全体にかならず流れています。そうした思いを、言葉の端々にこめ、言葉づかいでもそれを表現したいと思いました。
──制度や役職名について、日本では馴染みのない言葉や、定訳がない単語もあったかと思いますが、どのように対応なさったでしょうか。
栗木
先生:
これはむずかしい問題です(苦笑)。まず、専門書を読む。その分野にくわしい知人がいれば質問する。そしてもちろん、ネットでも検索します。そうして調べた結果、日本語に置き換えられるなら、できるだけ置き換えます。そうしないと、制度や役職名はカタカナだらけになってしまいます。今回は監訳の方がいらっしゃいましたが、そうではない場合、自分なりに工夫して訳出し、不明な場合や迷った場合はいくつか訳出の仕方の候補を挙げ、編集者に相談します。
この問題は、分野にかかわらず、翻訳者が苦労しているところだと思います。
──この本を読むと、おそらく読者それぞれに、日本の医療に対して考えさせられる部分が出てくると思うのですが、先生はどんなことをお感じになりましたか?
栗木
先生:
私自身、プライマリ・ケアに関してあまり知識がなかったため、本書を読み、ひとりの医師が、患者のありとあらゆる症状を診ていることにとても驚きました。イーストン医師は、午前中だけで17人の患者を診察しているのですが、その内容は、心血管疾患、足底筋膜炎、うつ病、自殺予防、腰痛、腹痛、頭痛など、じつに多岐にわたります。最後には、麻薬を寄こせと迫ってくる男性まであらわれます。 ひとりの医師がこれだけの総合的な知識をもち、診察にあたっていることに、心底驚きました。と同時に、この著者のように思いやりのある医師が身近にいてくれたら、どれほど心強いだろうと、うらやましくも思いました。
というのも、GPは、患者の心身を総合して診るからです。たとえば、長年診ている高齢の患者が「腰の痛みが治らない」と訴えている場合、GPは精神的な問題が隠れているかもしれないと推測できます。腰が痛いからと初めて近所の整形外科を訪ねた患者さんが、痛み止めを渡されておしまいだったという結果にはなりません。自分を丸ごと診てくれる医師がいる、ふだんの自分の状態を知っていて、異常があればすぐに気づいてくれる医師がいる。それは、どれほど心強いだろうと思いました。
監訳の葛西龍樹先生の日本語版解説によれば、日本ではまだ医療保健システムにおけるプライマリ・ケアの重要性や価値についての理解が進んでいないとのこと。高齢化社会となり、医療費削減の必要性が叫ばれているいま、日本でもプライマリ・ケア制度がととのうことを願っています。
──最後に、学習中の方にメッセージをお願いします。
栗木
先生:
「私はミステリを翻訳したい」「私はロマンス小説が好き」「ぼくはビジネス書を手がけたい」など、それぞれご希望の分野があると思います。でも、チャンスがあれば、「この分野は苦手」「この手のものには興味がない」と敬遠せず、さまざまな分野の作品の翻訳にチャレンジしてほしいと思います。私自身、文系ですし、もともと、サイエンスにはあまり興味がありませんでした。でも、依頼された作品を翻訳しているうちに、自分が知らない世界を知ることによろこびを覚えるようになりました。それに、いい作品は、分野に関係なく、いい作品です。面白い作品は、どんな分野であろうと、やはり面白いのです。
翻訳を続けていると、世界が広がります。新たな価値観を身につけることもできますし、自分の殻を破ることもできます。それに、本気で勉強できます。私の場合、学生時代より、日々、よほど本気で勉強していると思います(笑)。
ぜひ、憶することなくチャレンジして、新たな世界の魅力を発見してください。
栗木さつき先生のプロフィール:
翻訳家。『医者は患者をこう診ている 10分間の診察で医師が考えていること』(河出書房新社)、『SINGLE TASK 一点集中術――「シングルタスクの原則」ですべての成果が最大になる』(ダイヤモンド社)、『科学でわかった正しい健康法』(大和書房)、『NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方』(森嶋マリ氏との共訳、NHK出版)、『脳外科医マーシュの告白』(NHK出版)、『わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか』『(主婦の友社)など訳書多数。
栗木先生、ありがとうございました。先生と同様、私もこの本ではじめてGPについて知りましたが、おっしゃるとおり、臨場感のある短編小説集のようで、リズミカルな語り口にも引きこまれました。 また、先生のおっしゃる「敬遠せずにまずはチャレンジ」の姿勢は、特にノンフィクションでチャンスをつかみたい方には大切な姿勢だと思います。最初はえり好みをしている余裕のないことが普通ですので、来た仕事に必死で取り組むのがとても大事ではないでしょうか。
(written by Takasaki)
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