一覧に戻る

トラマガ

Vol.336 <前編>『ハリー・ポッター』翻訳者/同時通訳者 松岡佑子さん

惚れ込んだ作品を、みずから母国語に訳し、読者に届ける喜び。
誰よりも深く愛し、理解した『ハリー・ポッター』を、訳者がいま一度語る。

後編を読む→


(2015年1月9日更新)
 シリーズ累計2400万部を超える大ヒットを記録した『ハリー・ポッター』シリーズ。完結編である第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』が発行されてから既に6年が経ちましたが、今なお世界中で愛されています。今月は、『ハリー・ポッター』シリーズを日本に紹介した立役者である松岡佑子さんのご登場です。ベテランの同時通訳者だった松岡さんが、初めて挑んだ文芸翻訳作品。翻訳者である前に一読者として、深く、熱い思いで読み込んだからこそ再現できた世界観がそこにはありました。どんな思いを抱きながら、この大作を世に送り出したのか。翻訳エピソード満載でお届けします。どうぞお楽しみください。

翻訳には、しつこい性格の人が向いている

――『ハリー・ポッター』シリーズが翻訳としては初の仕事だと伺いましたが、本当ですか?

 はい、そうです。大学を卒業してから、私は長年、通訳の仕事に携わっていました。ある団体の常勤通訳者として7年間勤めた後、フリーの通訳者になり国際会議の同時通訳などの仕事をしていました。1998年秋にハリー・ポッター第1巻の原書に出合ったのも、通訳の仕事で出向いていたヨーロッパでのことです。仕事を終えてロンドンの友人宅を訪問したのですが、当時私は、亡き夫が遺した出版社を引き継いだばかりで、何か翻訳出版できる本はないかと探していたところだったのです。そんなとき友人が面白いと勧めてくれたのが『ハリー・ポッター』の第1巻でした。
 最初は半信半疑でした。表紙もマンガっぽくて、あまり好きではありませんでしたし。でも、ホテルに帰って読み始めたら、もう止まらなくなって……。一晩で全部読み終え、ぜひともうちから翻訳出版したいと、版権交渉に乗り出しました。ライバルは3社ほどあったようですが、どれだけこの本に惚れ込んでいるかを書き連ね、審判が下るのを待ちました。そして交渉が始まって2カ月後、私の出版社に決めたという連絡を受け取ったのです。
 通訳に関しては、当時で既に30年余りの実績がありましたし、通訳を教える仕事もしていました。生徒には「翻訳と通訳は違う。通訳ができるから翻訳もできると思わないこと。逆もまた真なり」とさんざん言っていたくせに、自分が翻訳をすることになるなんて。もっとも、アメリカのモントレー国際大学院の日本語通訳・翻訳科の学部長をしていた友人に頼まれて、1992年に1年間、代理で客員教授となり、学部長も務めましたので、そのときに翻訳理論を勉強しました。大学院では通訳だけでなく翻訳も教えましたし、大学院翻訳科の院生3人の卒業論文の面倒もみました。それから通訳時代にお世話になった方に頼まれて、知的所有権に関する書類の英日翻訳や、石川馨先生の品質管理に関する書籍の英訳など、実務系の翻訳は多少の経験がありましたので、まったく初めてというわけではありません。
 しかし、文学の翻訳、しかも少年少女向けのファンタジー作品というのは、経験のない分野でした。

――生徒さんに「翻訳と通訳は違う」とおっしゃっていたということですが、具体的にどのような点が違うとお考えでしょうか?

 もちろん、共通する部分もあります。日本語・英語両方の語学力、常識的な感覚が求められるところは同じです。ただ、翻訳と通訳は仕事の性質が大きく違いますので、人によって向き不向きがあるように思います。まず、無口な人は通訳は難しいでしょう。次から次に新しいことをやりたい人は、通訳には向いていますが、翻訳は向きません。翻訳には、しつこい性格の人が向いていると思います。じっくり調べて、何度も練り直す必要がありますから。
 でも、翻訳をやっていた人が通訳をやって成功するということも、もちろんあるんですよ。境界線は越えられないことはないんです。翻訳と通訳は違うと言っているだけで、両方はできないということではありませんから。

――松岡さんは両方なさったわけですが、ご自身ではどちらが向いていると思いますか?

 私は翻訳のほうが向いていると思います。といっても、通訳者だったころは、「これが天職だ」と思っていたんですよ。何事にものめり込むほうですから。翻訳もやってみたいと思っていましたが、通訳の仕事が忙しすぎて、やる時間がありませんでした。
 亡くなった夫が私の仕事のしかたを見ていて、「翻訳のほうが向いている」と言ったことがあるんです。じっくり静かに仕事を進めるほうが好きでしたから。『ハリー・ポッター』の翻訳をするようになって、後から夫の言葉を思い返してみると、やっぱり翻訳のほうが向いているのかなと、そんなふうに思いました。私も相当しつこい性格ですから(笑)。

作品を理解するまで、まずは原作を深く読み込むこと

――文芸作品、またファンタジー作品という意味でも、『ハリー・ポッター』の翻訳は松岡さんにとって新たな挑戦だったと思いますが、何か特別になさったことはありますか?

 翻訳を進めるにあたっては、まずどのような文体にするのがふさわしいかを決めなければなりません。小説を訳すのは初めてでしたので、自分の経験から学ぶことはできません。そこで、原書を何度も繰り返し読み込むと同時に、文体を決めるのに参考となるような本をいろいろと読みました。
 モントレーの大学院で教えていた時の同僚で、後にハリー・ポッターの翻訳チェックにも関わってもらった日英翻訳家のジェリー・ハーコートから、「私がチェックした本なんだけど、名訳だから読んでみたら」と勧められたのが、森沢真理さんが訳した『魔女と呼ばれて』(フェイ・ウェルドン著、集英社)でした。それから、当時、英国の子どもたちに一番人気だったロアルド・ダールの作品もいくつか、原書と訳書を並べて読み比べ、どのように訳せばいいのか研究しました。
 それから日本の子どもたちが読んでいる、日本の作品も読みました。小学校の推薦図書や、芥川龍之介の『蜘蛛の糸・杜子春』、小川未明の童話集などです。

――文体を決めるまで、時間はかなり掛かりましたか?

 かなり試行錯誤をして、何度か書き直しましたが、でも2カ月はかからなかったと思います。ある程度、自分の中で文体を決めたところで、10人以上の人に読んでもらいました。まず編集者、ジェリー・ハーコート、それから大学時代の後輩2人、彼女たちには7巻の最後までハリー・ポッターの翻訳チェックもお願いしました。翻訳者のタマゴで『ハリー・ポッター』のファンサイトを一緒に立ち上げた方々、亡き夫の親友とそのお子さん、さまざまな立場の方に読んでもらい、忌憚のない意見を出してもらいました。
 いろいろな意見がありましたが、その中から、なるほどと思うところは受け入れ、蹴っ飛ばすものは蹴っ飛ばし、最終的に自分が納得できる文体を、自分で決定しました。
 結局、自分が読んで楽しいと思える文体にしましたので、子ども向けの文章ではありませんでした。

――文体が決まってからは、スムーズに進みましたか?

 第1巻を訳し終わるまでに、結局1年かかりましたので、スムーズとは言えないでしょう。翻訳に1年掛けられるというのは、幸せです。ふつう、翻訳者に与えられる翻訳期間というのは、せいぜい2〜3カ月です。年間1冊だけの稼ぎでは生活していけないでしょうから。でも、矛盾しているかもしれませんが、本当にいい翻訳をするには1年くらいは必要ではないかと思います。
 仕事のやり方としては、私が訳したものを、編集者が目を通すのはもちろん、ジェリー・ハーコート、大学の後輩2人にも協力をお願いして、徹底的にチェックしてもらいました。それをもとに、さらに訳文を練り上げ、校正し……、これを少なくとも6回は繰り返しました。そして1巻を最終的に印刷所に渡す前夜は編集者と2人で徹夜して、ぎりぎりまで練り上げました。
 完璧とは言いませんが、これ以上はできない、というところまでやり遂げたという思いで、印刷所に入稿したことを覚えています。

――それから10年を掛けて、全7巻の大作に取り組まれたわけですね。作品への思い入れも、かなりのものだったのではないでしょうか。

 もちろんです。作者の描いた世界観を壊さないように、原作を何度も何度も読み返しましたので、本はボロボロになってしまいました。でも、著者のJ.K.ローリングはその原作本に「すばらしい」とサインをしてくれましたけど(笑)。
 実は、昨年の3月から「静山社ペガサス文庫」として『ハリー・ポッター』シリーズの少年少女向け文庫版 を順次出版しています。漢字の読めないお子さんでも読めるように総ルビを振っているのが特徴ですが、それ以外にも直すべきところがあれば、この機会に直そうと、私自身が文体も含めてすべて見直しました。どこか間違えているんじゃないかと、疑いの目を持ちながら見直していったのですが、「ここはわかりにくいかも」「ここは勘違いしたな」と思えるところは1冊につき数個所という程度でした。 
 最初の訳で間違いがあっても、おかしいことではないんです。というのも、J.K.ローリングは徹底的な秘密主義で、第7巻の最後の章を書き上げて金庫に入れて鍵をかけてあると言いながら、その内容は読者はもちろん翻訳者にも明かしてくれなかったのですから。そのため、登場人物の本当の人間関係もわからず、謎のような言葉の背景も知らないまま訳さなければなりませんでした。第7巻で初めて明かされる事実もあり、その伏線として書かれていた部分を間違えていたとしても、ある意味、仕方のないことなのです。
 しかし、すべてのストーリーが明らかになった後に全巻を読み直してみても、大きな間違いはありませんでした。それはつまり、私が初めからずいぶんと読み込んでいたということです。ハリーは結婚相手のジニーと第6巻で付き合い始めるのですが、第1巻に出てきたときに私はピンときていましたから。それだけ深く読んでいたということでしょう。原作者はすべてのストーリーを頭に置いて書いていますから、作品を読み込めばわかることがいっぱいあります。つまり、翻訳者は時間をかけてじっくりと原書を読み込まないといけないということですね。


空前のベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズは、一読者として作品に惚れ込み、原作を深く読み込み、情熱を持って訳した松岡さん、そしてそれを支えた翻訳チームの皆さんの努力があったからこそ生まれたのですね。後編では、翻訳学習中の皆さんからの質問にも答えていただきました。どうぞお楽しみに。

このインタビューもおすすめ!

松岡佑子

1943年福島県生まれ。国際基督教大学卒。国際会議の同時通訳者として長年にわたり活躍する。1992年にモントレー国際大学院大学の客員教授に就任すると同時に、同大学の大学院に入学。国際政治学の修士号を取得する。夫の死去にともない1997年に出版社である静山社の代表取締役に就任。翌年、『ハリー・ポッター』の版権を取得し、1999年から2008年にかけて全7巻の翻訳・出版を手がける。『ハリー・ポッター』シリーズ以外には、『吟遊詩人ビードルの物語』『ハリー・ポッター裏話』(以上、J.K.ローリング著)「少年冒険家トム」シリーズ(イアン・ベック作)等の訳書がある。現在はスイスに拠点を移し、翻訳業、静山社会長、ハリー・ポッターの講演やエッセイストとしても活躍中。

<関連リンク>

■松岡さんが会長を務める出版社
株式会社 静山社

静山社『ハリー・ポッター』特設サイト

■松岡さんが創立したワインクラブ
Phoenix Wine Club


<訳書>


ハリー・ポッターと賢者の石 (1)


ハリー・ポッター文庫全19巻セット(箱入)


<静山社ペガサス文庫>幻の動物とその生息地


ハリー・ポッター裏話

PICK UP

通学講座説明会 体験レッスン 資料請求で全員にプレゼント

PAGE TOP