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トラマガ

Vol.344 <前編>映像翻訳家 松崎広幸さん

学生時代は年間1000本の映画三昧。
映画を深く愛し、楽しんだ経験が、自分にしか作れないセリフを生みだした。

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(2015年5月11日更新)
 劇場公開作品を中心に、吹替も字幕も、そして時にはフランス映画も手がける映像翻訳家、松崎広幸さん。子どもの頃から映画館で映画を観るのが好きで、数多くの映画に親しんできたそうですが、意外にも翻訳にはまったく興味がなく、映像翻訳家になるとは夢にも思っていなかったとか。しかし映画好きの少年は、映画監督を目指す青年になり……、とにかく映画の周辺からずっと離れられずに、たどり着いたのが映像翻訳家という職業でした。果たして、これは幸せな結末だったのか、松崎さんが翻訳を手がけるようになるまでの半生を詳しく伺いました。

好きな映画にのめり込み、大学時代は趣味もアルバイトも映画オンリー

――映像翻訳家になられたきっかけは、映画ですか? それとも翻訳ですか?

 映画ですね。父が映画好きで、小学生の頃よく映画館に連れていってもらいました。僕らの世代の映画好きは、テレビの洋画劇場などを見て好きになったという人も多いのですが、僕の場合はとにかく映画館に行くのが好きだったんです。僕は東京の生まれですが、家から歩いて行けるくらいのところに街の小さな映画館がありました。テレビより大きい映画館のスクリーンで見るのが好きで、よく通っていました。そのうち、自分でも映画を撮りたいな、映画の道に進みたいなと漠然と思うようになって。邦画も洋画もどちらも見ていました。洋画は当時は吹替がなかったので字幕でしたが、字幕の翻訳をしたいとは考えませんでしたね。映像翻訳の仕事を始めた30歳の頃まで、翻訳をやりたいと思ったことは、実はまったくなかったんです。

――子どもの頃に映画が好きになり、映画監督を目指したことがあったそうですね。

 映画を作りたいとはぼんやり思っていましたが、昔から映画監督が夢だったわけではなく、中高時代はスポーツが好きで運動選手になれればいいなと思っていました。でも、大学で体育会に入ったものの辞めてしまって……。そのあとですね、本格的に映画の道を模索するようになったのは。時間ができてからは、映画を毎日3、4本、年間1000本以上見ていました。映画関係のアルバイトも始め、当時はロマンポルノなどを製作していたにっかつ(日活)で助監督を経験しました。助監督といっても数人いるうちの一番下っ端だったので、通行人を止める役とかね(笑)。にっかつに入社して何年か助監督をやれば監督になって映画を撮らせてもらえたのでその道を目指そうかと思っていたのですが、僕がバイトに入った頃にはビデオが主流になってきていて、にっかつもどんどん縮小傾向で、「助監督やってても監督になれないよ」と言われて。結局、バイトをやってると映画を見る時間もないので、2、3本やっただけで助監督のバイトは辞めました。
 その頃には、日本では映画監督を仕事にしてもちゃんと暮らしていくのは難しそうというのがだんだんわかってきて、将来の職業としては考えていませんでしたね。当時から仲間と一緒に自主制作で8ミリ映画を撮っていたので、そういうことはやりたいなと思っていましたが。

――他にはどんなアルバイトをしたのですか?

 御茶ノ水のアテネ・フランセ文化センターで手伝いをしていて、そこで35ミリのフィルムを映写機にかけるやり方も教わりました。そうそう、このとき初めて映画字幕のハコ切りをしました。セリフのどこからどこまでを一枚の字幕に収めるか、番号を振っていく、あのハコ切りです。「急いでるんだけど、翻訳者が忙しいみたいだから、適当な長さで区切っていって」とスクリプトを渡されたんです。その時は何も知らないから、言われた通り適当にポンポンって区切っていって。もちろん最終的には翻訳された方が直したんでしょうけど、字幕はこんなふうに作っていくんだなって、初めて知りました。

大監督への道、不合格を目指して渡仏!?

――映画にどっぷりつかった大学生活を送ったんですね。卒業後はどんな道を歩むことにしたんでしょうか?

 いくつか出版社なんかを受けるには受けたんですが、卒業してすぐに会社に勤めようという気持ちがあまりなくて……。フランスにIDHEC(イデック)という超難関の映画学校があったんです。この入学試験を受けたかったんです。いや、実は入学したかったわけじゃなく、この学校の入試に落ちると大監督になるという言い伝えがあって。じゃあ、そこを受けて落ちてやろうと。なにせ景気の良い時代だったので、1年くらいつぶして帰ってきても、就職先はいくらでもあったから、親を説得して渡航費用を借りました。

――フランス語は話せたんですか?

 この計画を思いついてから実行に移すまで半年くらいあったので、その間、独学で勉強しました。学校にでも通えば効率よく身についたのかもしれないけど、独学主義みたいなところがあって。それから語学習得に対する自信みたいなものも多少はあって。
 日本で半年、それから向こうで1年間暮らしながら勉強して、なんとか試験を受けようと思っていました。ところが渡仏してから調べたら、IDHECは前年の入試を最後に、次年度以降は新入生をとらないというんです。間抜けな話ですが、インターネットのない時代、日本にいて得られる情報は限られているので仕方がありません。まあ、せっかく来たんだから1年間は過ごして帰ろうと腹を決めました。

――1年間、どのように過ごしていたんですか?

 フランスでは日本とは桁違いに映画がたくさん上映されています。映画ばかり見ていましたね。フランス人の友人もできたので、フランス語もちゃんとできるようになって帰ろうと、さらに勉強しました。フランス語は書くのは難しいですが、話すのと聞くのはそこそこできるようになりました。
 フランスに渡って7〜8カ月ぐらい、言葉も多少はできるようになった頃に、父の知り合いのテレビ制作会社の人から、通訳のアルバイトを頼まれたんです。パリで大相撲の巡業があって、日本人スタッフとフランス人スタッフの意思疎通を図るくらいの通訳ができればいい、ということだったので、それくらいならなんとかなるかなと思い、引き受けました。ところが始まってみたら、それだけにとどまらず、当時はパリ市長だった、後のシラク大統領へのインタビューの通訳なんていう仕事もあって。僕の通訳でよかったのかどうかわかりませんが、それでも何とかこなしました。

――1年間のフランス滞在を終えて、帰国。そのあとはどんな仕事に携わったんですか?

 パリで大相撲巡業のテレビ局の仕事を手伝ったのが気に入られたようで、日本に帰って間もなくテレビ番組制作会社の方から仕事の誘いをいただきました。ただ、かつて映画の道を志した者として、テレビの人間になることに抵抗があったんですよね。だから何度か誘われましたが、断り続けていました。
 とはいえ、バイト生活をしながら、この先どうにかしなければと思っていたので、「今度、映画の番組が始まるんだけど手伝ってくれないか」と誘われたときには、テレビとはいえ映画に関する番組なら、と引き受けることにしました。それが1987年に始まった、フジテレビ系の『ミッドナイトアートシアター』という番組でした。当時は民放の映画番組というと夜9時のゴールデンタイムに吹替で放映されているものがほとんどだったのですが、この『ミッドナイトアートシアター』は深夜0時過ぎから、オリジナルの音声と字幕で、映画本編はノーカット、コマーシャルも入れずに放映するという画期的なスタイルでした。それから毎回ゲストが登場して、はじめに大まかな映画の説明をして、映画終了後は好きにしゃべってもらうという構成だったのですが、ディレクションは僕が丸々任されていたので、映画に合わせてゲストを選んだり、映画説明部分の原稿を書いたりもしていました。

――映画好きには打ってつけの仕事ですね。

 そうですね。しかも、映画本編はできあがったものがあり、前後の解説部分を作るだけなので、週に2日くらい働けば番組はできてしまうんです。それでも景気が良かった。あとの5日間は映画を見たり、仲間と8ミリ映画を撮ったり、好きなことがたっぷりできましたね。
 そんな生活を5年くらい続けて、次に「語学ができるなら手伝ってくれないか」と声をかけられたのが『二か国語』という番組でした。洋画を一本紹介し、その中のセリフを取り上げて「実はこう言っているんだよ」と解説しつつ、「こんなセリフのほうが面白い!」と独自に翻訳したセリフを声優がアテレコするという教育バラエティ的な内容でした。僕は初めは単なる手伝いということで参加したのですが、放送台本を書いていた外国人の作家が2本目くらいで音信不通になってしまって、「来週の台本を書く人がいない。代役をやってくれ」と頼まれたんです。そしたら、なかなか出来がよかったから次も頼む、と言われて、結局それから10年ほど、その番組の台本を書きました。


■印象に残っている映画作品(松崎さんのコメント付き)

「幼少期」「大学時代」「フランス滞在中」それぞれの時代に印象に残った作品を伺いました。好きな映画や印象に残った映画がありすぎて困るなあ、とおっしゃいながら選んでいただいたのが以下の3本です

  • 「大忍術映画ワタリ」 幼少期に見た最初の映画で、2歳か3歳の頃に見たはずですが、大人になって再見し、記憶と寸分たがわぬ場面が出てきて自分ながら驚きました
  • 「断絶」 大学時代に見て特に好きだった映画の中の1本。友人が海外からこの映画の16ミリフィルムを購入し、狭いオフィスの中で上映した際に見せてもらいました。見た人には分かるはずですが、ビデオやDVDやケーブルテレビで見ては意味がない映画です
  • 「メーヌ・オセアン」 フランス滞在中に見て特に印象に残っている映画の中の1本。当時、フランスで新作として公開された中で特に今でも細部まで鮮明に覚えている作品です。台詞はなまりが強いフランス語で、半分も聞き取れませんでしたが、それでもとび抜けて印象に残っています

 時代は好景気の真っ只中、好きな映画にのめり込んで自由奔放に大学時代を謳歌し、フランス遊学を経て帰国、そしてテレビ番組の制作に携わり……。後編では、松崎さんがどのようにして映像翻訳家になられたのかが、いよいよ語られます。乞うご期待!

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松崎広幸(まつざき ひろゆき)

1963年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。子どもの頃から映画が好きで、映画監督を目指した時期もあったが断念し、フランス遊学を経て、テレビの映画番組制作の仕事に就く。その後、テレビ放送用の洋画の吹替翻訳を始め、やがて劇場公開映画の吹替翻訳、字幕翻訳を手がけるようになる。2000年頃から劇場映画翻訳の仕事に絞り、現在に至る。主な作品は、『パシフィック・リム』(吹替・字幕)、『スパイダーマン』『メン・イン・ブラック』(吹替)、『トランスフォーマー』『ソーシャル・ネットワーク』(字幕)など。

<最新情報>


キアヌ・リーブス主演
2015年10月劇場公開
『ジョン・ウィック』(字幕)

<翻訳作品>


『パシフィック・リム』(吹替・字幕)


『スパイダーマン』(吹替)


『メン・イン・ブラック』(吹替)


『ソーシャル・ネットワーク』(吹替)


『トランスフォーマー』(字幕)

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