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トラマガ

Vol.348 <前編>児童文学翻訳家 ないとうふみこさん

翻訳は子育てをしながら。
持ち込みとリーディングを経て、念願だった児童書の翻訳者に。

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(2015年7月10日更新)
 今回は、児童書の翻訳を中心に活躍されている、ないとうふみこさんにお話を伺いました。学生時代はESS部でディベートに奮闘し、大学卒業後は私立の中高一貫校の英語教師に。そして結婚・出産を機に、子育てと両立できる仕事をと選んだのが翻訳家の道でした。スタートは28歳。3人の男の子を育てながら、通信講座、雑誌やラジオの翻訳講座など、主に自宅での独学で腕を磨き、36歳で初の訳書を上梓しました。みずから出版社へ持ち込みを行うことで運を切り拓き、念願の児童書を翻訳できたのは41歳のこと。それでは、ないとうさんが歩んできた翻訳家への道のりを詳しくお話しいただきましょう。

現実を逃れ、外国の物語の世界にのめり込んだ子ども時代

――ないとうさんは子どもの頃、どんな本を読んでいましたか?

 好きな本は繰り返し何度も読むほうで、スウェーデン人作家リンドグレーンの作品がお気に入りでした。『長くつ下のピッピ』で有名なリンドグレーンですが、私が特に好きだったのは『名探偵カッレくん』シリーズ。カッレくんと友達のアンデスという少年、エーヴァ・ロッタという少女の仲良し三人組が主人公です。
 実は昨年、この本を何十年ぶりかに読み返す機会があったのですが、主人公の3人が三角関係だったことを知って驚きました。何度も読み返したはずなのに、まったく記憶になかったんです。小学生だった私は、3人の冒険に興味津々だったけれど、恋にはまるで関心がなかったんですね。
 ただ、大人になってから読んでもやはりこの物語はとても面白く、改めて読んで、あの頃と同じ“楽しみのエッセンス”を確認することができました。

――お気に入りの本は翻訳作品が多かったのですか?

 そうですね、振り返ってみると、読んでいたのはほとんどが外国の物語だったような気がします。うちは父親が厳格で、新聞社に勤めていたので夜勤明けで昼間家にいることも多かったのですが、テレビの歌謡番組や娯楽番組は「くだらない」と見せてもらえなかったんです。だから代わりに、本は図書館で借りてたくさん読んでいました。なかでも外国の物語を好んだのは、現実とは違う世界に逃げ込みたかったからかもしれません。ほら、日本の作品にはやはり日本独特の空気があるでしょう。そうじゃなくて、もっとカラリとした外国の作品の中にある空気を求めたんだと思います。

――外国の物語を読むうちに、英語や翻訳について意識するようになったのですか?

 あの頃は、ただ単に本を読むのが好きなだけで、翻訳を意識したり、ましてや自分で翻訳したいとか、そんなふうには考えませんでした。
 英語はふつうに中学に入学してから学び始めました。塾に通っていたのですが、それが独特な教え方をする塾で、参考書など一切使わずに、ただひたすら教科書を丸暗記させるんです。覚えて行かなかったら、軍隊上がりのおっかない先生にすごい剣幕で怒鳴りつけられるので、それは恐ろしかったです。
 でも、私にはその勉強法が合っていたようです。高校に入って塾からは解放されましたが、自分で高校のリーダーの教科書を丸暗記して、ノートに全訳を書くという勉強法を実践しました。このノートはクラスメイトから大評判で、授業中、私のノートがあんちょことして教室中を駆け巡っていました。そんなこともあって、「英語が得意な奈良さん(旧姓)」と周りからは見られていたようです。

――いつ頃から、翻訳家を目指そうと思ったのですか?

 学生の頃に、将来の夢として「翻訳家になりたい」と考えたことはなく、もっとずっと後になってからですね。ただ、大学受験の頃に“翻訳”を意識したことがありました。今でもよく覚えています。みんなで同じ科目を習う高校までとは違い、大学生になったら“いろいろなことを幅広く学べる人間になりたい”という思いが私の中にありました。そこで「“翻訳”というものをやろうと思ったら、言葉ができるだけではだめで、いろいろなことを勉強しなければならない。逆に言えば、翻訳をやればいろいろなことが学べるはずだ。だから翻訳を学ぶのがいいんじゃないか」と、そう考えたんです。
 上智大学の英語学科に進みましたが、英文学科に誤訳批評で有名な別宮貞徳先生がいて翻訳の授業をなさっていたので、最初のうちはその授業にもぐり込んだりしていました。ただ、所属していたESS部の活動がかなり忙しくなり、そのうちに翻訳への興味は薄れていってしまったのですが……。

――ESS部では、どのようなことをしていたのですか。

 私はディベートをやっていました。競技ディベートといって設定される主題について英語で議論をたたかわせるのですが、そのためには調べ物も大変なんです。たしか1年生のときの主題が「原発を廃止すべきか」で、国会図書館に行って調べたり、エネルギー庁(当時)の広報課に出向いて話を聞いたり、そんなこともしていました。今にして思うと、翻訳でも必要な調べ物のノウハウは、このときの経験が役に立っているかもしれません。

――仕事に英語教師を選んだのはどうしてですか?

 卒業生は、外資系の企業に勤める人が多かったのですが、私は「自分には会社勤めは無理だろう」と思っていました。ディベートの経験から、人前で話すことに抵抗がなかったので、だったら先生がいいかな、と。それで私立の中高一貫校の英語教師になりました。
 ただ、教師をしていたのは2年だけです。英語の授業は問題なくこなせたのですが、それ以外がちょっと……。例えば、掃除の監督。生徒が「できました」というので、「はい、OK」と言うと、別の先生がやってきて「黒板の下が真っ白、やり直し!」。授業以外はそんなことの連続で……。結婚を機に、これ幸いと辞めてしまいました(笑)。

翻訳雑誌への投稿で腕を磨き、名前を覚えてもらう

――仕事を辞めて、しばらくは専業主婦をされていたのでしょうか?

 はい。1年間は何もせずにぶらぶらしていました。結婚までは実家に住んでいて、先に申し上げたとおり父親が厳格だったので、テレビもあまり見たことがなかったんです。その反動というか、一人で自由な昼の時間は、歌謡番組やワイドショーを思う存分見て、好奇心を満たしていました(笑)。ただ、そういうのって1年くらいで飽きるんですよね。あるとき友人夫婦と食事に出かけたのですが、みんなの話に入っていこうとしても言葉がうまく出てこない自分に気づいたんです。そりゃそうですよね、1日中テレビを見て、出掛けると言っても買い物に行く程度。ぶらぶらと過ごしているわけですから。これじゃいけない、何かしなければと危機感を感じました。
 自分の歩んできた道を振り返ると、やはり英語しかないと思い、英語をふたたび勉強し直して、英検1級と通訳ガイドの資格を取りました。そうしているうちに妊娠していることがわかり、通訳ガイドの資格を取ったばかりだったのですが、子育てとの両立を考えると通訳はやはり現実的ではないと思い、翻訳者を目指そうと決心して、そこからようやく翻訳の勉強を始めました。

――いよいよ翻訳ですね。英語の勉強はかなり積み上げてきていましたが、翻訳というとまた違うところがあると思います。どのようにして学んだのですか?

 この先、出産・育児と続いていきますから、外出はなかなかできないと思い、通信講座で学ぶことにしました。通信講座は2年間受講しましたが、すごくまじめな生徒でしたよ(笑)。私にとってそれが唯一の社会とのつながりですから、図書館に行って調べ物をしたりしながら一生懸命に取り組みました。その甲斐あってか、終了後はリーディングや下訳など、いくつか仕事につながりました。

――2年の通信講座を終えてからはどうしましたか?

 その後は、投稿生活です。当時、1990年前後ですが、翻訳の専門雑誌にさまざまな分野の課題が数多く掲載されていて、それを訳して送ると優秀な訳文は誌面で紹介されたんです。お金を掛けずにできるよい勉強方法だったので、せっせと投稿していました。

――誌面に紹介されることもあったのですか?

 はい。投稿を続けるうちに紹介されるようになりました。ですが、いちばん最初に載ったのは、良い訳文ではなく、悪い訳文としてだったんです。「とりたてて間違いがないだけに、何ともあいさつに困る訳である」というコメントがついていました。何度も読み返したので、今でも覚えています(苦笑)。訳は正しいが、面白くもないし、読もうという気持ちも起きない訳だ、ということですよね。こんなふうに言われると、落ち込んでしまう人もいるかもしれませんが、私はそれを肥やしに頑張れるほうで、講評を何度も読んで、何がダメだったのか、どうすればいいのか一生懸命考えました。
 そのほかにも週に1回、短波ラジオで翻訳講座がありました。こちらも課題を訳して送ると先生が論評してくれるというもので、早朝だったのですが、毎週楽しみに聞いていました。

――この投稿生活が、お仕事につながったそうですね。

 そうなんです。そのラジオ講座に小林町子先生のロマンス小説のコーナーがあって、2年くらい投稿し続けていたら、優秀作としてたびたび取り上げていただけるようになりました。あるとき小林先生が何の前触れもなく「ないとうさんにはそのうちお仕事を紹介したいと思います」とコメントをしてくださったんです。ビックリしましたが、とにかくうれしくて、すぐに小林先生に御礼の手紙を書きました。ちょうど主人のアメリカ留学が決まっていて家族全員で1年間アメリカに住む予定だったので、その旨をお伝えして、帰国後にあらためて小林先生に連絡しました。
 先生にはハーレクイン社をご紹介いただき、トライアルを受けられることになりました。そして、何とか合格すると、最初の2、3作は私が翻訳したものを小林先生が差し向かいで添削してくださったんです。翻訳料は折半ということにしていただきましたが、翻訳者名は私ひとりの名前で出してくださり、私の翻訳家としてのデビューが実現したのです。

――仕事がいただけただけでなく、つきっきりの添削でいろいろと教えていただけて、本当にありがたい待遇でしたね。

 そのとおりです。ロマンスは特に、その世界観を大切にするために、独特の訳し方があるのですが、小林先生にはそういうことをいろいろと教えていただきました。
 例えば、“She was shocked.”という原文に先生がつけた訳は「びっくり!」でした。主語を省き、地の文をほどいて訳す、こんなやり方があるのかと、まさにびっくりしました。
 それからロマンス小説には、この世界を味わいたいと思っている人に向けての“サービス精神”も必要です。例えば、主人公が恋する彼は“CEO”(最高経営責任者)ですが、先生は「『社長』のほうが偉そうだから、『社長』にしましょう」とおっしゃいました。
 特によく直されたのが、会話の訳し方です。「会話は面白く訳さなきゃダメ」と何度言われたことか。どうすれば生き生きとしたやりとりになるか、一つ一つ直していただいて、本当にためになりました。

――ただ、その後、体調の面でお仕事を中断せざるを得なくなったそうですね。

 はい、三男を出産したあと、産後の肥立ちが悪く、救急車で運ばれて緊急手術ということになったんです。そのときは、半年くらい翻訳の仕事をお断りしました。でも、今振り返ると、それもいい充電期間で、その間に多くの大切な出会いがあったんです。


通信講座や雑誌やラジオ投稿で腕を磨き、ついにロマンス小説で翻訳家デビューを果たしたないとうさん。ところが、体調不良であえなく休業。しかし、転んでもただでは起きません! この半年の間に、どんな出会いがあったのでしょうか。後編をお楽しみに。

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ないとうふみこ

大阪で生まれ、1歳のころ東京に転居。上智大学外国語学部英語学科卒業。大学卒業後、私立の中高一貫校の英語教師として2年勤める。結婚を機に退職し、翻訳の勉強をはじめる。翻訳雑誌への投稿がきっかけでハーレクイン社のトライアルを受け合格。1995年、36歳で初の訳書『カーニバル・ナイト』が出版される。児童書の翻訳がしたくて持ち込みを続け、2000年、41歳の時に児童書の初の訳書『宇宙人が来た!』(徳間書店)が出版される。主な訳書に、『きみに出会うとき』(東京創元社)、『マリゴールドの願いごと』(小峰書店)、『新訳 思い出のマーニー』(共訳/角川文庫)、『アナと雪の女王 愛されるエルサ女王』(角川つばさ文庫)、「オズの魔法使い」シリーズ(復刊ドットコム)、『涙のタトゥー』(ポプラ社)などがある。

<関連リンク>
■ブログ「オン&オフ
■ホンヤクこぼれ話『オズのかかし


<訳書/共訳書>


「きみに出会うとき」(東京創元社)


「マリゴールドの願いごと」(小峰書店)


「新訳 思い出のマーニー」(共訳/角川文庫)


「アナと雪の女王 愛されるエルサ女王」(角川つばさ文庫)

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