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トラマガ

Vol.356 <前編>出版翻訳家 阿尾正子さん

1冊の翻訳も、最初はほんの数行から。
翻訳筋肉は日々のトレーニングで鍛えられる!

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(2015年11月10日更新)
 今回はロマンス、ミステリを中心に出版翻訳の分野で活躍する阿尾正子さんにお話を伺いました。子どもの頃、翻訳家に憧れたものの、それは遠い夢と諦めて企業に就職。しかし、もう一度自分の人生を見つめ直したとき、やりたいと思ったのはやはり翻訳でした。自分で期限を3年間と決めて翻訳の道に挑戦し、見事に仕事へとつなげることに成功。リーディングの仕事で自分なりに工夫して書いたレジュメが編集者の目に留まり、初めての訳書刊行が実現したのです。

本を読むだけで外国に行った気になれる、翻訳家ってすごい!

――小さい頃から本が大好きなお子さんだったそうですね。

 はい、小学校に上がる前から本はたくさん読んでいました。夜、寝るときもずっと読んでいると、「早く寝なさい」と叱られるので、布団をかぶって隠れて読んでいたほどです。小学生の頃、いわゆるジュニア小説、少女小説と呼ばれるジャンルのものをたくさん読むようになり、次第に『赤毛のアン』『若草物語』などの翻訳ものへと進んでいきました。
 これらの本が翻訳されたものだと意識したのは、中学生の頃だったと思います。『赤毛のアン』の表紙に「モンゴメリ」という作者の名前が書いてあり、その下にもうひとつ「村岡花子」という名前があるのに気づいて、「ああ、この人が訳しているのか。外国の文学を日本語にする仕事があるんだな」と、翻訳という仕事を初めて意識したことを覚えています。
 それがきっかけで、中学だったか高校だったか忘れましたが、『赤毛のアン』の原書を買ったんです。翻訳書の中では、行ったことのない海外の風景、食べ物、服、そういうものが、あたかも今、自分の目の前にあるみたいに日本語で書かれています。その元である原書には、どんなふうに書かれているんだろう、と興味がわいたんです。でも案の定、まったく読めないわけです。それで、「本を読むだけで、行ったことのない外国に行った気になれる、そんな機会を与えてくれる翻訳家ってすごいな」って思いました。

――その時から翻訳家を目指すようになったのでしょうか?

 いいえ、そうはならなかったんです。本が好きで、英語も好きで、「翻訳ってすごいな」と思ったことは確かなのですが、それを自分がやるというふうには、そのときは結びつきませんでした。あまりにも遠い世界で、どんなふうにしたら翻訳家になれるのか、想像も及びませんでしたから。大学は国際関係学科に進み、卒業後に一般企業に就職しました。業種はアパレルで、仕事は商品を買い付ける仕入れバイヤーです。取引先は国内メーカーでしたので、仕事で英語を使うこともありませんでした。

――企業に就職して順調に社会人生活を始めた阿尾さんが、なぜ翻訳家を目指すことになったのですか?

 よくあることで、30才くらいになって、仕事がひととおり身につくと、だんだん先が見えてきて、「私はこのままでいいの?」と思うようになったんですよね。それで、ちょっとした気分転換のつもりで、仕事帰りに英会話学校に通い始めたのですが、それが面白くて。
 仕事を始めた頃は、一人前になるために頑張らなきゃ、という思いが強くて、「翻訳小説を読む時間があったら業界誌を読んだ方がいいんじゃないか」「英語は仕事に関係ないから、それよりも仕事に関する勉強をしたほうがいい」と、今思うと自分を押さえつけているところがあったんでしょうね。何年間も押さえつけていたものが、英会話学校に行き始めたことでパーンとはじけて。「やりたいことをやった方がいいや」と思うようになっていったんです。
 そうしたら、「そういえば昔、翻訳家に憧れていたことがあったな」と思い出して。思い出したら止まらなくなって……。会社を辞めて、翻訳学校に通い始めたんです。

――それはまた、急な展開ですね。

 普段はわりと優柔不断なほうなんですが、そのときは会社を辞めることに、不思議なほど迷いがありませんでした。ただ、あまりにも突然だったので、まわりの人間をあたふたさせたようですが……。
 翻訳家に憧れていた中高時代は、どうすれば翻訳家になれるかもわからず、身近なことに感じられなかったのですが、この頃には翻訳学校というものがあって、そこに通えば翻訳家の道が開けるかもしれない、という現実的な可能性が見えていたので、「じゃあ、やってみよう!」と思い切ることができたんだと思います。とはいえ、本当に翻訳家になれるものかどうかは定かではなかったので、自分で期限を切って、「3年間やってみてダメだったら、諦めて他の道を探そう」と決めていました。

――なるほど。勝負の3年間ですね。翻訳の勉強は、具体的にどのように進めましたか?

 翻訳学校の授業は基本的に週1回で1コマ3〜6カ月だったので、「ミステリ」「文芸」「児童文学」など並行して2つか3つの講座を取っていました。今から思えば課題なんてたいした分量じゃないんですけど、毎回訳すのが楽しくて、楽しくて。翻訳学校は、毎週担当が2人くらい決められていて、その人の訳を中心に授業が進んでいくのですが、担当かどうかは関係なく、私は必ず毎回訳していきました。他の人の訳や講師の方の試訳と自分の訳を比べて、「ここはいっしょだ」「どっちの訳がいい?」などと考えるのが本当に楽しかったんです。

――翻訳学校の授業以外にも、自分で勉強したりしましたか?

 はい、なにしろ時間がたっぷりあったので。そのとき読んでいた小説の原書を取り寄せて読み比べたり、実際に訳して比べてみたり。訳していると、調べたいこともいろいろと出てくるんですよね。例えば、私立探偵が出てくるミステリを読んでいたときには、アメリカの法律の話が出てきたので、その内容を詳しく調べたいと思い『アメリカ法辞典』を買いました。それから、銃がたくさん出てくる作品を読んでいたときは、銃の仕組みがわかる本を探したりもしました。

――その頃の勉強で、何がいちばん役に立っていると思いますか?

 今いちばん役立っているのは「分量をこなしたこと」だと思います。下手な訳でも、とにかく毎日たくさんやっていれば、“翻訳の筋肉”ができてくる気がするんです。スポーツといっしょで、昨日まで何もしていなかった人が、いきなりフルマラソンは走れないですよね。まずウォーキングから始めて、次第にジョギングができるようになり、1km走れた、10km走れるようになった、とやっていくうちに、気がつけばフルマラソンも走れるようになるんだと思うんです。  翻訳も同じです。最初は数行訳すのがすごく大変なんです。でも、それを毎回やっていると、そのうち1ページ訳せるようになり、数ページが平気になり、段々スピードも出てきて、最終的に1冊訳せるようになる。そのためのトレーニングは、とにかく繰り返し繰り返し、量をこなすことが何よりも大事だと思います。

面白くないものは読みたくない。だから、短編小説のようなレジュメに!

――3年間勉強して、何か翻訳の仕事につながる道筋は見えてきましたか?

 翻訳学校3年目に、先生の紹介でリーディングの仕事をまわしてもらえるようになりました。原書を読んでレジュメを書く仕事です。多いときは月に3〜4本、受けていました。先生から下訳を頼まれるようになったのもこの頃です。すぐに自分の名前で本を出すというわけにはいかず、まだ生活ができるにはほど遠かったのですが、少しずつ翻訳に関する仕事でお金がもらえるようになっていって、「このまま頑張り続ければ、何とかなるかもしれない」と思いました。

――それでは、初めて自分の名前で出版された訳書は、いつごろ、どのようなきっかけで?

 チャンスが訪れたのは、3年間の学習期間を終えて間もなくでした。通学中に受けたリーディングの仕事は、ある版権エージェントからの依頼だったのですが、そこを辞めてフリーランスの編集者になった方から、「こんな本があるんだけど、翻訳してみない?」と声を掛けていただいたんです。アルゼンチンで貧しい生まれからファーストレディになった女優エバ・ペロンの生涯を描いた作品で、ちょうどアメリカでマドンナ主演の映画がつくられ、日本でも上映されることが決まっていたので、それに合わせて出版したいというお話でした。

――そのとき阿尾さんは、まだ訳書の実績はなかったんですよね。それなのに、なぜ声をかけてくださったのでしょう?

 私も不思議に思って編集者の方に聞いてみたんです。そうしたら、「翻訳できる人かどうかは、レジュメを見ればわかるから」と言われました。
 レジュメの書き方は、誰に教わったわけでもありません。仕事を受けた最初のときに、誰か他の人が書いたレジュメを見せられて、「こんな感じでまとめてください」と言われただけです。だから自分で考えて書くしかなかったのですが、私自身、面白くないものは読みたくないので、読む人が面白いと思ってくれるレジュメ、短編小説を読んでいるような気持ちにさせるレジュメを書こうと思ったんです。
 例えば、物語のあらすじを書くとき、ただ内容が順番に書いてあるだけだと、読んでもつまらないじゃないですか。ビジネス書なら、内容を伝えることが大事なので、それでいいかもしれません。でもフィクションや、ノンフィクションでも物語性があるものだと、そういう書き方では作品の魅力が伝わらないと思ったんです。作品を読んでいると、カッコいいセリフがあったり、感動する場面があったりしますよね。私はそういうところを実際に翻訳して、あらすじのなかにそのまま入れ込むようにしました。
 だから私の翻訳力が少しは伝わったのかもしれません。私が努力して書いたレジュメを評価してくれた人がいたんだ、それが仕事につながったんだ、と思うと、とても嬉しかったです。

――どんな仕事でも真摯に向き合い、自分の力を発揮して取り組めば、次へとつながっていくのですね。それで、最初の仕事はスムーズに進みましたか?

 もうすぐ映画が公開になるということで受けた仕事だったので納期が短かったのですが、私はエバ・ペロンという人をまったく知らなかったため、それを調べるところから始めなければなりませんでした。 それから、編集者さんからは「だらだらした風景描写などはカットしてもいいから、面白く読める本に」と言われていたので、どこをカットすべきか考えながら訳さなければならず、それもまた大変でした。じっくり考えている暇はなかったので、とにかく言われたことをがむしゃらにやって、何とか締切に間に合わせたという感じでしたね。
 締切が過ぎてからも、もちろん編集者の赤が大量に入りましたし、編集の段階で削除されたり、書き直しの依頼が来たり、やらなければならないことはまだまだあって、ようやく校了を迎えたときには放心状態でした。
 それまでに、丸々1冊下訳したこともありましたが、それはひととおり訳したら終わりで、最終的な責任はありません。でも今度は違います。翻訳者として私の名前が表紙に載り、編集者の直しが入るとはいえ、すべてが私の言葉として出るわけですから、その緊張感ときたら、それまでとは比べものにならないくらい大きなものでした。

――しかし、この後に大きなハプニングが待っていたそうですね。

 そうなんです。これだけ頑張って、緊張感を持って訳し上げた本でしたが、出版社の都合でお蔵入りになってしまったんです。もう、それはショックでした。でも悪いことばかりではなく、私が困っていると聞いて、知り合いの編集者が声を掛けてくださったんです。以前、下訳をしたときの編集者さんで、「まだ完全ではないけれど、これだけできるんだったら、次は阿尾さんの名前でうちから1冊出しましょうね」と言ってくださっていた方です。原稿を読んで「出版しましょう」と言ってくださり、晴れて1997年1月に原書房より『聖女伝説 エビータ』が出版されました。これが私の初の訳書です。お陰様で何度か重版になり、拾ってくれた出版社さんにも恩返しすることができました。


人生にふと立ち止まったとき、子どもの頃の夢を思い出した阿尾さん。そしたら、もう止まらなくなって、あとは一直線。3年間の翻訳学習期間は、本当にがむしゃらに突き進んだことでしょう。なんとか初めての訳書が無事に刊行され、これからが正念場です。翻訳の仕事をどのように獲得していったのか、続きは後編で。

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阿尾正子<あおまさこ>

横浜市立大学国際関係学科卒。大学卒業後は一般企業に就職するものの、30才のときに一念発起して翻訳者になるために退社し、翻訳学校に通い始める。3年間通い、リーディングや下訳の仕事を経て少しずつ翻訳の仕事をするようになる。初めての訳書は1997年発行の『聖女伝説 エビータ』(原書房)。主な訳書に、『この夏を忘れない』(二見書房)、『間違いだらけの愛のレッスン』(竹書房)、『潮風に殺意が漂う』(トラブルシューターシリーズ、ヴィレッジブックス)、『偽りのアンティークベア事件』(テディベア探偵シリーズ、東京創元社)などがある。

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<主な訳書>


『この夏を忘れない』(二見書房)


『間違いだらけの愛のレッスン』(竹書房)


『潮風に殺意が漂う』(ヴィレッジブックス)


『恋のかけひきにご用心』(二見書房)


『嘆きのテディベア事件』(東京創元社)

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