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トラマガ

Vol.358 <前編>ドイツ語映像翻訳者 吉川美奈子さん

ドイツに魅了され続け翻訳者に。
映画を通じてドイツの歴史を伝えたい。

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(2015年12月10日更新)
 中高生の頃に読んだ漫画がきっかけでドイツにのめり込んだという吉川美奈子さん。大学でドイツ語を専攻し、卒業後は現地に勤め先を見つけました。5年間ドイツ語を使う職場で働いた自信から、友人に頼まれたドイツ語の翻訳を軽い気持ちで引き受けますが、そう簡単にはいかなかったそうです。本格的に翻訳を学ぼうと決意し、その後、見事フリーランスの実務翻訳者に転身しました。そこからさらに映像翻訳者へと舵を切るわけですが……。どのような経緯で現在の仕事にたどり着いたのか、お話を伺いました。

ドイツかぶれが高じて、ドイツ語翻訳者の道へ

――ドイツが大好きでドイツ語を学ばれたとお聞きしましたが、大好きになったきっかけは何ですか?

 中学生の時に池田理代子さんの漫画『オルフェウスの窓』にはまったんです。第4部まであるのですが、舞台は20世紀初頭のドイツから始まって、その後、オーストリア、ロシア、最後にもう一度ドイツに戻って完結します。第一次世界大戦やロシア革命が盛り込まれている壮大なスケールの物語で、漫画雑誌では6年間にわたって連載されていました。その少し前に、同じく池田さんの『ベルサイユのばら』が大ブームになって、もちろんそれも好きで読んでいたのですが、『オルフェウスの窓』を読んだときの感動はその比ではありませんでした。何度も読み返したので今でもセリフを空で言えるほどです(笑)。
 高校生になるといっそうはまっていたので、大学受験は大変でした。「勉強しなきゃ、でも読みたい」と誘惑に打ち勝つのに必死でしたね。
 この漫画の影響で、ドイツに行ってみたい、ドイツのことをもっと深く知りたい、と強く思うようになり、大学はドイツ語を専攻しようと決めました。

――大学に合格し、実際にドイツ語を学んで、ドイツへの思いはどうなりましたか?

 大学3年生のときに、語学研修で初めてドイツを訪れました。大学に入ったら学業以外にも誘惑が多いので、1、2年の頃は、サークル活動をしたり、友だちと遊んだりとふらふらしていたのですが、このドイツ旅行がきっかけで、「やっぱり私にはこれしかない。ドイツを極めよう」と心が決まりました。卒業後は、とにかくなんとかドイツに住めるような仕事を探そうと思いました。

――その思いは実現させることができましたか?

 はい。大学4年生になり就職活動を始めたころ、先生からドイツ勤務の求人をご紹介いただきました。これしかないと応募したところ、採用が決まりました。日系金融機関で、勤務地はデュッセルドルフ、2年間の契約で渡独しました。仕事内容は、パソコンが今ほど普及していない時代だったので、上司が書いたレターをタイプライターでミスをしないように清書する、といったようなことでした。日系企業なので日本人もいますが、基本的にドイツ人の中で暮らすので、このときの体験は非常に貴重でした。いま私がまがりなりにもドイツ語の仕事をしていられるのは、あの2年間があったからだと思っています。現地の慣習に従って土日の休み以外に年間30日の休暇がもらえたので、ドイツ中をくまなく旅行することもできました。本当にドイツおたくだったので、隣国など行かずに、ひたすらドイツです(笑)。貧乏旅行をたくさんしました。

――旅行先で、特に思い出深い場所はどこですか?

 ビザをとって、東ドイツにせっせと通いました。私がドイツに行ったのが1986年。ベルリンの壁が崩壊したのが1989年、東西ドイツの統一がその翌年ですから、まだ東西が分断していた頃です。“カルチャーショック”というのはこういうことかと身をもって体験しました。初めて西ドイツを訪れたときとは比べものにならない感覚です。生きて帰れるのだろうか、来なければよかった、という思いに駆られたことを覚えています。でも、それ以上にもっと知りたいという気持ちのほうが強く、その後も何度も訪れることになるのですが。

――ドイツでの2年間を終え、その後はどうしましたか?

 日本に帰って、こんどはドイツ系金融機関に職を見つけることができました。勤務地は日本ですが、ドイツ人社員も多く、私の仕事は半分が営業関係、半分がドイツ人社員の雑用係といったところでした。会社の公用語は英語ですが、私はドイツ人社員とはドイツ語で話していました。この会社には3年間勤めました。

――その後、翻訳をするようになったそうですね。

 はい。翻訳は、漠然とではありますが、いずれ仕事としてできればいいなと思っていました。あるとき出版社に勤める友人からドイツ語の書籍の下訳を頼まれて、もちろん二つ返事で引き受けました。ドイツに暮らした経験もあるし、職場でも5年間ドイツ語を使っていたので、「下訳くらいならできるだろう」という軽い気持ちでした。
 ところが、これが大きな間違いでした。ドイツ語の意味はわかるけれども、それを日本語で表現することができないんです。このときは「下訳だから、それでいいよ」と言われましたが、このままでは翻訳者として仕事を受けるなんて到底できません。これは勉強しないといけないと気づき、通信講座を受講することを決めたんです。

――翻訳の勉強はどのようなことをしましたか?

 いろいろと事情があって通学はできなかったので、通信講座を1年間受講しました。出版と実務のあらゆる分野の課題をドイツ語から日本語に翻訳する講座でした。私にとって理解した内容をいかに日本語で表現するかが課題だったので、とても勉強になり、1年間やり通して少し自信がつきました。
 そろそろ仕事を探したいと思っていたところ、新聞の求人欄にドイツ語の翻訳者募集の広告を見つけて、応募しました。小さな翻訳会社だったのですが、トライアルを受けて合格し、仕事をいただけるようになりました。ドイツで発行されている技術系月刊誌の記事翻訳だったのですが、毎月定期的に仕事があり、納期がゆるやかで技術監修もついていて、わからないところは監修の方が説明してくれるので、非常に勉強になりました。
ドイツ語以外にも英語から日本語の翻訳依頼もあり、英語も復習して対応しました。そのとき痛感したのが、「ドイツ語ができるのは有利だけれど、ドイツ語だけというのは厳しい」ということでした。ドイツ語だけだと、やはり仕事の量が限られてしまいます。私はドイツ語を専門にしつつ、英語の仕事も受けられるという2本立てでいくことができたので、安定的に仕事を得ることができたのだと思います。

ドイツ映画の奥深さに魅了され、いつかは映像翻訳の仕事を!

――現在は実務ではなく映像翻訳の仕事をされていますが、もともと映画には興味があったのですか?

 はい、映画は昔から好きで、ドイツに住んでいたときも映画館によく足を運びましたが、観ていたのは生粋のドイツ映画ではなく、ハリウッド映画のドイツ語吹替版でした。ハリウッド映画を楽しみつつ、ドイツ語のヒアリングの勉強になる、これは一石二鳥だと思い、毎週のように通っていました。
 あの頃は映画というとエンターテインメント性のあるものだと思っていたんですが、その思いを覆す出来事がありました。ドイツに暮らしはじめて間もない頃、テレビでドイツ映画の『ブリキの太鼓』をやっていて、それを観たんです。後にノーベル文学賞を受けることになるドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した作品で、映画化されたのは1979年でしたので、それから約10年後にテレビで放映されていたんですね。
 根底にあるテーマは戦争で、非常に難解で、暗くて、奥が深い映画です。「こういう映画もあるんだ」と強い衝撃を受けました。ナチスという負の歴史、それに対してドイツ人が持つ贖罪の気持ち、そういうものを表す映画もあるのだということを初めて知りました。私にとってのドイツ映画の原点が、この体験です。
 実際に映画の仕事をするまでに、そのきっかけとなるような出来事が3つあったのですが、そのいちばん最初の出来事がこれでした。

――映画そのものへの考え方が変わったんですね。では2つめの出来事は?

 日本に帰国して、これもテレビで放映されていたのですが、1920年に制作されたドイツのサイレント映画『カリガリ博士』を観て、再びショックを受けました。いわゆる怪奇もので、人殺し、狂気、ホラーなど、いろんな要素が詰め込まれているのですが、革新的で芸術としても評価が高い作品です。「複雑怪奇な世界を映画で表現するとこうなるんだ」と衝撃を受けて、録画したものを何度も何度も繰り返し観ました。このとき、「ドイツ映画の歴史を勉強したい」「いつか映画の仕事がしたい」と思いました。ちなみに、1920年代のドイツは、ハリウッドにも多くの作品を輸出していたほど映画産業が発達していたんですよ。

――それでは映像の仕事につながることになった3つめの出来事は?

 実務翻訳をしながら、子育ても忙しかった時期だったと思います。日本に住むドイツ人の友人がビデオを貸してくれたんです。音楽家シューマンと妻クララの愛の半生を描いた『哀愁のトロイメライ』という作品です。これも何度も見返した映画だったのですが、下訳時代にもこの作品に携わる機会があり、勝手に運命的なものを感じています。

――その後どのタイミングで映像翻訳の世界に飛び込むことになったのでしょうか?

 いつかは映像の仕事をしたいと思いつつ、実務翻訳を続けて6年くらい経った頃だったと思います。翻訳関係の雑誌に掲載されていた求人広告で、字幕翻訳家の方が下訳者を募集していたんです。字幕の経験はないので、おそるおそる応募したのですが、できるかどうかではなく、「やりたい」という気持ちがわき上がってきて、「やらせてください」と言っていました。

――映像翻訳の経験は、この時点ではゼロだった?

 そうです。それから2年間、当時は手書きだった先生の原稿をワープロで打ったり、口述筆記したりすることから始めて、そのうち字幕翻訳をやらせてもらうようになり、見よう見まねで字幕翻訳のルール、コツなどを覚えていきました。とても勉強になり、やはり映像翻訳でやっていきたいという思いが高まりました。


ドイツ映画の世界観に魅了され、いつかは映像翻訳の仕事を、と夢を持っていた吉川さん。いよいよ映像の世界に飛び込むチャンスがやってきました。その後、どのように仕事を獲得していったのか、後編でお話を伺います。お楽しみに。

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<よしかわみなこ>

上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。大学卒業後、ドイツにある日系金融機関に2年間勤める。帰国して、東京にあるドイツ系金融機関に3年間勤めた後、1992年よりフリーランスでドイツ語の実務翻訳を始める。1998年ごろから映像翻訳をはじめ、2000年からは映像翻訳のみに従事するようになる。主な字幕翻訳作品には、『ヒトラー暗殺、13分の誤算』『あの日のように抱きしめて』『ぼくらの家路』『ハンナ・アーレント』『さよなら、アドルフ』『東ベルリンから来た女』『コッホ先生と僕らの革命』『PINA/ピナ バウシュ 踊り続けるいのち』などがある。

<主な翻訳作品>


『ハンナ・アーレント』


『コーヒーをめぐる冒険』


『コッホ先生と僕らの革命』


『さよなら、アドルフ』


『悪童日記』
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