翻訳インタビュー「トランスポット」

   

実務翻訳者 高橋聡さん<前編>

変化する翻訳業界
いつの時代にも選ばれる翻訳者になるために

翻訳に携わるようになって30年以上。会社員時代に副業として始め、翻訳会社勤務を経て、現在はフリーランス翻訳者としてIT・テクニカル分野を中心に活躍している高橋聡さんにお話を伺います。高橋さんはフェロー・アカデミーの講師として、多くの新人翻訳者を世に送り出してきました。また現在、日本翻訳連盟(JTF)の専務理事も務めており、業界事情についてもよくご存じです。いま、そして今後の翻訳業界はどうなるのか、新人翻訳者にはどのようなスキルが求められているのか、ご意見を伺いました。

実務翻訳でも動画に字幕を、
ITはマニュアルから「マーケティング翻訳」へ

  • 実務翻訳に携わるようになって35年とのことですが、35年前と現在では翻訳者を取り巻く環境や翻訳する内容もかなり変わったのではないでしょうか。

    高橋さん

     そうですね、私が翻訳を始めた頃はインターネットもまだなく、調べものは新聞と図書館でしたから(笑)。時代とともに良くも悪くもさまざまに変化してきました。本質は変わらないかもしれませんが、状況の変化に対応する構えは常に必要です。翻訳者は自分の置かれている状況を読み取って、足りない部分があれば補いながら進化していかなければならないと考えます。

  • ここ最近の変化というと、どういうことが挙げられますか?

    高橋さん

    実務翻訳者 高橋聡さん写真

     いろいろありますが、ひとつには実務翻訳のなかでも、映像のナレーションや台詞を訳す案件が増えてきているということです。例えば、かつては印刷物だったマニュアルを、オンライントレーニング動画の配信に切り替えているケースが増えていて、英語で制作された動画に日本語字幕を付けるといったニーズが出てきています。
     ただ、いわゆる映画やドラマの映像翻訳とはルールがかなり違うようです。映画の字幕翻訳では台詞の長さに合わせて字幕の文字数制限が厳密に決められていますが、実務翻訳のほうはそれほど厳密なルールはありません。字幕の文字量が多すぎて読めなかったら、一時停止したり、前に戻ったりして見直すことが可能ですから。とはいえ、映像に合わせて簡潔に訳すことは必要なので、映像翻訳のノウハウがあれば役立つと思います。

  • 実務翻訳者も映像翻訳を学んでおくとよいということでしょうか?

    高橋さん

     最近の字幕翻訳は、字幕制作ソフト「SST」を使って翻訳するのが一般的です。フェロー・アカデミーの字幕翻訳の講座でも学校にある「SST」を使って授業を進めていますよね。近頃は無料の字幕制作支援ソフトも出てきており、オンラインマニュアルの字幕翻訳などでも使っているようですが、どのソフトも使い方は似通っているようなので、映像翻訳のクラスを一度受講しておくと基本的な知識が身について、実務翻訳で動画に字幕を付ける仕事がきても対応できる、というのはあるかもしれません。
     それから、映像翻訳者が実務翻訳の分野で活躍するということも可能かもしれませんね。翻訳会社のトライアルを突破しなければならないので、何か得意分野を持つ必要がありますが、合格したら「映像翻訳のスキルがある」ことをアピールポイントにできると思います。

  • 高橋さんの専門であるIT・テクニカル分野の変化というと何があるでしょうか?

    高橋さん

     最近よく使われるようになった新しい言葉に「マーケティング翻訳」と「トランスクリエーション」があります。言葉自体は以前からあったのですが、これがIT翻訳の業界では従来の意味とは少し違ったニュアンスで使われていると個人的には思っています。これらの言葉が最近のIT翻訳の傾向を表しているかもしれません。
     ITの分野はかつて、実務翻訳のなかでもわりと参入しやすい分野だと言われていました。1995年にWindows 95が発売されると、パソコンユーザーが爆発的に増え、PC関係のマニュアルやヘルプの翻訳需要が一気に伸びたのです。マニュアルやヘルプは翻訳量が膨大で、多くの翻訳者を必要としました。内容はというと、定型的な文も多く、ITの知識は必要でしたが、わりあい平易な英語で書かれていたので、新人の翻訳者が仕事を始めるためのハードルが低かったということでしょう。とは言え、本当は、決して易しい仕事だけではありません。この頃の安易な認識のせいで、質の良くないIT翻訳が世の中に氾濫することになったと思っています。
     マニュアルやヘルプの大量の翻訳を短期間で処理するために、翻訳支援ツールも生まれました。過去に翻訳した原文とまったく同じか、あるいは似たような文章については、過去の訳文を活用できるという仕組みです。
     このような状況は2000年代に入る頃まで続きましたが、その後、マニュアル・ヘルプの翻訳需要が減っていきます。私も、まわりのIT系翻訳者も、かつては「仕事の9割がマニュアルやヘルプの翻訳」という時期がありましたが、最近は全体の2〜3割程度に減ってきています。
     ではIT翻訳の全体量が減っているかというと、そういうわけではありません。マニュアル翻訳に代わって出てきたのが「マーケティング翻訳」なのです。

  • IT翻訳でいうところの「マーケティング翻訳」とは、どういうものなのでしょうか?

    高橋さん

     マーケティングに関する文書の翻訳は、本来、ITに限らず実務翻訳のどの分野でも存在します。例えば、お客様向けのWebページ、営業のためのパンフレットやカタログ、企業が発信するニュースやブログといったものです。自動車でも、食品でも、何かの材料でも、どんな分野にもマーケティングに関する文書の翻訳ニーズは昔からあり、それぞれの分野の翻訳者が翻訳してきたはずです。
     では、IT翻訳で特に「マーケティング翻訳」という言葉が使われるようになったのはなぜか。
     かつて主流だったマニュアルやヘルプは、定型文が多く、技術的な内容が正しければ、日本語が多少読みにくくても許容されるところがありました。ところが、お客様向けのWebページやパンフレット、ニュースとなると、読みにくくても大丈夫とはなりません。正しく読みやすい文章や、読む者に対する訴求力が求められます。マニュアル・ヘルプの頃とのニーズの違いを明確にするために「マーケティング翻訳」と称して区別しているというわけです。

  • もうひとつのキーワード「トランスクリエーション」は、どういう意味でしょうか?

    高橋さん

     「トランスクリエーション」は、“トランスレーション”と“クリエーション”を合わせた造語で、もともとは翻訳にコピーライティング的な要素を加味して、原文を離れてもいいから、思い切りクリエイティブな翻訳をする、という意味でした。
     ところが最近のIT翻訳では、マーケティング翻訳で要求されているような、マニュアルなどよりも読みやすい、日本語としてこなれた訳文にする、それを説明する言葉として「トランスクリエーション」と表現することが増えているんです。言葉の持つ本来の意味からは離れてしまっているけれども、何を言わんとしているかはわかるので、便利に使っているのでしょう。
     翻訳者の求人でも「トランスクリエーションができる方は単価を上乗せします」といったことが書かれているのを見ますし、仕事の依頼でも「トランスクリエーションでお願いできますか」と言われたりします。そんな場合は、原文とつかず離れずの翻訳ではなく、思い切って意訳してもいいんだな、と受け取っています。

  • では、かつてマニュアル・ヘルプの翻訳をしていた翻訳者が、「トランスクリエーション」が求められる「マーケティング翻訳」に移行しているということでしょうか?

    高橋さん

     もちろん、移行できるスキルを持っている方は移行しています。しかし、そのニーズに応えきれない翻訳者もいます。マニュアルの翻訳ならできるけれどマーケティング翻訳となると難しい、そういう人は、おそらく仕事が減ってきているんじゃないかと思います。そして今後数年で、いま以上に機械翻訳が使われるようになってくるでしょうから、実務翻訳の現場はますます変わっていくと思います。
     トランスクリエーションは、出版翻訳の勉強をしてきた方にとっても面白い仕事かもしれません。読み物に近いようなニュース原稿を私自身も訳すことがあります。分野の壁はどんどんなくなっていくのではないかと思います。

確実に勢力を伸ばす機械翻訳と共存するためには?

  • 機械翻訳の話が出ましたが、機械翻訳はどのように人間による翻訳に置き換わっていくのでしょうか?

    高橋さん

    実務翻訳者 高橋聡さん写真

     わかりやすく言うと、機械翻訳はいままで翻訳支援ツールに頼って翻訳をしていた分野から、まず入ってくると思います。これまでのやり方は、翻訳支援ツールを使って過去の訳を活用しながら新規の部分を翻訳者が翻訳していました。それをチェッカーがチェックする。
     そういうフローの一部を機械に置き換えるのが機械翻訳です。最近の機械翻訳は、文のルールを考えて訳を組み立てるのではなく、蓄積された大量のデータを活用して新たな訳文を構築します。ただ、まだ機械翻訳の出力する訳文はそのままでは使いものにならないので、最終的に人間が見て、間違いを直し仕上げる。その仕事をポストエディットといいます。
     単純に、いままで翻訳者とチェッカーの2人が関わっていた仕事が、ポストエディターの1人だけになる。クライアントとしてはコストダウンになるというわけです。そんなふうに動いている現場が実際にあると聞いています。

  • そのような機械翻訳が絡む仕事を、高橋さんご自身もしていますか?

    高橋さん

     ポストエディットの仕事を打診されたことはあります。ただ、私や、私の知り合いの翻訳者はたいてい断っています。これは私の考えですが、ポストエディットは自分の言語運用能力に影響しそうだからです。翻訳支援ツールにも似たようなことが言えるのですが、過去の翻訳を利用するということは、自分がゼロから翻訳を考える場面が減るんです。そういう仕事ばかりしていて、影響がないはずがありません。
     ポストエディターという仕事は、今後増えていくと思いますし、プロのポストエディターが育っていくのは必要なことだと思います。しかし、翻訳とはまったく違うスキルなので、翻訳者を目指す学習中の人が、参入しやすいということでポストエディターの仕事に就くことは、翻訳の仕事を目指すうえではリスクが大きいと思います。

  • 現状、翻訳業界に機械翻訳はどのくらい浸透してきているのでしょうか?

    高橋さん

     《機械翻訳+ポストエディット》のやり方は、10年くらい前からあると思いますが、2016年秋にGoogle翻訳がニューラルネットワーク翻訳を導入してから、機械翻訳は性能が格段に上がったと言われています。ポストエディットの手間が以前に比べるとかなり減ったと。そうなると機械翻訳を使いたいというクライアントも増えてくると思いますので、翻訳者の需要が減っていくことが予想されます。
     機械翻訳に取って代わられる一番の候補が、マニュアルやヘルプの翻訳です。定型文が多い文書は機械翻訳が得意とするところですから。IT以外の、例えば自動車や医療機器などでも、マニュアルやヘルプは機械翻訳が入ってくる可能性が高いですね。特許翻訳も、ヨーロッパ言語間ではだいぶ前から機械翻訳が広がっており、日本語でもその波は避けられそうにないと言われています。反対に、機械翻訳が参入しづらいのは、金融や法務の分野のようです。

  • 翻訳料の相場はどうでしょう? 変化はありますか。

    高橋さん

     全体の相場は、残念ながら下がり続けています。特に、機械翻訳の参入が見られる分野は、翻訳単価の値崩れが起きていますね。IT翻訳でいうと、1990年代から2000年代にかけて、いわゆるITバブルの頃は1ワード20~30円だった相場が、2000年代後半になると半分程度の1ワード10〜15円くらいになり、いまでは10円を切っています。6〜8円程度じゃないでしょうか。

  • 翻訳単価の値崩れの原因は何でしょう?

    高橋さん

     世界規模で見ると、日本の翻訳市場はある意味、特殊です。例えば、グローバル企業がある文書を多言語展開するとき、英語とヨーロッパ言語との間の翻訳では、言語の類似性が有利にはたらきます。ところが英語から日本語にするとなると、言語構造が大きく違うため、そう簡単にはいきません。そのため日本語が絡むドキュメンテーションの翻訳は別の予算を立てて日本の翻訳会社に任せるというのが、かつてのやり方でした。
     ところが、日本語だけ特別扱いするという時代は終わり、どんなに特殊であろうと多言語展開の一言語として他と同じ予算で行ってくださいという時代になってきたんです。簡単に言えば、予算が縮小されることになった。翻訳支援ツール、さらには機械翻訳の導入というのはもはやグローバルな潮流で、日本語もそこから逃れられなくなっています。
     ですから厳密に言えば、機械翻訳の導入によって翻訳料の値崩れが起きているのではなく、日本語への翻訳の予算枠が縮小されたことによって、翻訳単価が下がり、機械翻訳の導入が進んでいるということなのです。

  • 翻訳料の相場が下がったいま、フリーランスの翻訳者として生き残るためには、どうすればいいのでしょうか?

    高橋さん

     そうですね、そこが重要ですね。最初に言ったとおり、時代の流れによって状況が変化するのは致し方のないこと。翻訳者自身が時代のニーズに合わせて進化していくことが大切です。例えば、翻訳単価が下がったのであれば、翻訳スピードを上げて、同じ時間でこなす翻訳量を増やすというのもひとつの手です。しかし、それには限度があります。もっと翻訳単価の高い仕事を得られるように努力するというのも有効です。もちろん口で言うほど簡単ではありませんが、実際にそのようにしている翻訳者が私のまわりにも大勢います。

高橋 聡<たかはしあきら>さん
プロフィール
高橋聡さんのプロフィール写真

フリーランス翻訳者。フェロー・アカデミー講師。日本翻訳連盟(JTF)専務理事。1983年頃から副業としてマニュアルなどの翻訳に携わり、翻訳会社のローカライズ部門勤務を経て2007年からフリーランスに。JTFでは、広報委員、翻訳品質委員も務めている。媒体を問わず辞書が好き。

<関連リンク>
ブログ「禿頭帽子屋の独語妄言 side A」

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