翻訳インタビュー「トランスポット」

   

実務翻訳者 高橋聡さん<後編>

変化する翻訳業界
いつの時代にも選ばれる翻訳者になるために

IT翻訳の分野では、かつて大量にあったマニュアルやヘルプの翻訳案件が減少し、Webページやパンフレットなどの、いわゆる「マーケティング翻訳」が増えている様子。このように翻訳のニーズは時代によってさまざまに変化していきます。いつの時代にも選ばれる翻訳者であるためにはどうすればいいのか、これから翻訳者を目指す人はどのように学習を進めばいいのか、この後編では高橋さんにアドバイスをいただきました。そして辞書の情報も積極的に発信している高橋さんに、学習者のための辞書選びのポイントも伺いました。
前編をお読みでない方はこちらから。

学習者は、目標を定めて、じっくり深く学ぶこと

  • ITの分野では、かつては9割を占めていたマニュアル翻訳が減りつつあるというお話でしたが、では翻訳者の皆さんは、その状況にどのように対処しているのでしょうか?

    高橋さん

     仕事量が減っているし、単価も下がっているマニュアルやヘルプではない、それ以外の仕事にシフトしていくというのが、ひとつの効果的な対処法です。IT以外に何か得意分野を持つことができれば心強いですね。例えば、IT系企業の社内文書のなかにも法務の絡むものがあります。依頼されたIT系の翻訳者が「法務は苦手なので」と断るなか、「法務も専門です」と受けることができれば、これは翻訳者にとって大きな強みになります。ITと自動車、ITと医療、ITと金融など、なんでもかまいません。どんな分野でも複合的な知識が必要な案件はありますし、複数の専門分野を持っていれば、一方の分野が陰りはじめたらもう一方の分野に主軸を移すという対処のしかたも可能です。
     翻訳という枠の中で多角化するという感覚です。まわりの翻訳者のなかにも、そのように仕事の範囲を広げている人は何人かいます。そう簡単なことではないので、誰でもすぐにできるわけではありませんが。機械翻訳の参入など、今後の業界の変化も見据えて、みんな悩みながら、自分はどうしようかと考えています。

  • では、これから実務翻訳者を目指して学習中の人は、どのようなところにポイントを置いて勉強すればよいでしょうか?

    高橋さん

    実務翻訳者 高橋聡さん写真

     そうですね、3つお話ししたいと思います。まず1つめ。翻訳の仕事をするうえで一番大事なこと、それは「諦めずに調べものをする」ことです。それができない人は、おそらく翻訳者にはなれないでしょう。どんな得意分野であっても、調べものをせずに翻訳を完成させられることはありません。調べものは、翻訳者に絶対に必要なスキルだと言えます。
     実際の仕事になると締切という時間制限があるわけですが、その限りある時間のなかで諦めずにどれだけ深く調べられるか、これが翻訳の精度につながります。学習中であれば、時間をたっぷりかけられるわけですから、自分が納得いくまでとことん調べることが大事です。ところが、講座の受講生を見ていると、調べ方が足りない人が多い。例えば、専門用語が出てきたら、その単語を辞書で引いて、そこに載っている訳語を何の裏取りもせずにそのまま使う、そういう人がいます。それでは本当に「翻訳をした」とは言えません。

  • 専門用語を辞書で引いて訳語を見つけて、それからどうすればいいのでしょうか?

    高橋さん

     その訳語が本当に正しいのかどうか、翻訳者なら十分に検討しなければなりません。出来上がった訳文をGoogleでフレーズ検索してみてください。そうすると、辞書に載っていた専門用語のはずなのに、ちっともヒットしないということが往々にしてあるんです。それはつまり、実際にその分野の現場でその言葉は使われていないということです。
     それがわかったら、では実際に使われている訳語は何か、調べなければなりません。原語に戻って、英文のフレーズ検索をしてみます。そのフレーズが出てくる英文全体を読み、何についての文章なのか見当を付けます。それと同じ内容の日本語の文書を探し、英語の文書と対比させます。内容を読み比べていくと、英文のこのフレーズにあたる日本語はこのフレーズで、つまりこの専門用語は日本語ではこう言われている、というのが見えてくるはずです。
     探し当てた訳語で訳文を作り、最後にもう一度、出来上がった訳文のフレーズ検索をしてみます。正しい訳語であれば、日本語の似通った文書がいくつもヒットするはずです。
     辞書に載っていない訳語でもいいんです。実際に現場で使われているのが確認できれば、それが正しい。そこまで深く調べることが大切です。

  • 勉強のコツ、2つめは何でしょう?

    高橋さん

     翻訳単価が下がっているいま、翻訳スピードを上げることがひとつの方策だと話しましたが、しかしそれは仕事をするうえでのこと。勉強中の人は、速く訳そうなどとは決して考えずに、どれだけ時間をかけてもいいので、じっくりと翻訳に取り組むことが重要です。
     私の授業では毎回400ワードほどの課題を出しています。実際の仕事なら1時間か、せいぜい2時間で仕上げなければならない量ですが、学習中なら1週間たっぷりと時間をかけて取り組むくらいでもいい。スピードは、学習が進むにつれ次第に上がっていくものです。学習中に追求するのはスピードではなく、翻訳の内容のほうです。

  • 翻訳スピードは意識しなくても徐々に上がっていくものでしょうか。

    高橋さん

     はい。ただし、なんとなく勉強していたのではだめ。勉強の内容が重要です。
     翻訳スピードを上げるのには、2つのアプローチがあります。1つは、翻訳とは関係なく「パソコン操作の面で効率化を図ること」です。例えば、よく出てくる専門用語は単語登録しておきます。“トランスレーション”と毎回9文字を入力するのではなく、“トラン”と単語登録しておけば3文字打って変換すればいいので1秒ほどの時間短縮になります。他にも時短の方法はたくさんあり、それが積み上がれば仕事を2、3割ほどスピードアップすることが可能でしょう。パソコン操作系のスピードアップは翻訳の勉強とはまったく別のところなので、興味のある方はいますぐ始めてもかまいません。翻訳の勉強と並行して進められると思います。
     もうひとつのアプローチが「翻訳に慣れること」です。これは先ほど言った、学習が進むにつれ自然と速く訳せるようになっていく部分です。例えば、訳し方のパターンやコツは、覚えたての頃は意識しないと上手くできませんが、何度も繰り返すうちに、無意識に短時間で訳せるようになっていきます。そうやって無意識にできるようになるためには、じっくりと時間をかけて意識的に訳す段階が必要なのです。

  • では最後、3つめは何でしょう?

    高橋さん

     最後は翻訳スキルではありませんが、モチベーションを維持して集中的に学習するのがいいという話です。翻訳を仕事にしたいと真剣に考えている人は、例えば「3年で翻訳を仕事にする」など、明確な目標を持ったほうがいいでしょう。私の講座の受講生のなかにもそういう方がいましたが、目標がはっきりしている人ほど、目標達成率が高いように思います。定年まであと7年という会社員の方は5年計画を立てていました。会社を辞めて翻訳学校に通い始めて、1年で仕事にすると宣言した方もいました。自分で区切りを付けることで、いつまでにこれを勉強して、いつ頃からトライアルを受け始めるなど計画的に学習を進められるようです。

辞書をしっかり活用して、言葉と向き合う

  • これまで多くの受講生を教えてきたと思いますが、プロになれる受講生と、なれない受講生、違いはどういうところでしょうか?

    高橋さん

     プロになるためには、英語力と日本語力の両方が揃っていることが条件です。最初から「日本語を書き慣れているな」と思える訳を提出してくるような方は、順調に実力を伸ばして、わりと短期間でトライアルに合格します。
     初回の訳文はあまり良くなかったけれど、結果的にトライアルに合格するレベルまでいったという方は、とても素直にこちらの指摘を聞き入れ、吸収していってくれた方ですね。一方、意外にも専門分野での実務経験が豊富で、英語にも接してきたという方が挫折するケースが少なくありません。経験があるだけに、直すべき点を指摘されても、それを素直に聞き入れることが難しいようで、なかなか自己流から抜け出せず苦労するようです。

  • 受講生でプロになるのはどれくらいの率ですか?

    高橋さん

     正確にはわかりませんが、数年前に受け持ったクラスで、半分くらいがフリーランスの翻訳者になったというケースがありました。とても勉強熱心な方々が集まった年で、もう修了して3年以上経ちますが、そのときのクラスメイトでいまでも毎月勉強会を開催しています。

  • プロになってからも勉強は必要なのですね?

    高橋さん

     勉強していない翻訳者はいないと思いますよ。勉強しなくなったら、おそらくどこかで行き詰まってしまうでしょう。翻訳者は勉強好きな人が多いですね。勉強というか、新しいことを知ることが好きな人。もしかしたら、それが翻訳者になるために必要な資質かもしれません。知的好奇心が旺盛だと、調べものも楽しんでできます。そういう人にとって、翻訳は実に面白い仕事だと思います。

  • 高橋さんはフェロー・アカデミーで辞書の使い方に関するオンライン講座も担当されていますね。辞書の活用方法や辞書を選ぶうえでのポイントについて教えてください。

    高橋さん

    実務翻訳者 高橋聡さん写真

     辞書には豊富な情報が載っていますが、訳語しか見ていない人が多くて本当に残念です。「辞書を引く」ではなく「辞書を読む」ようにと講座ではお伝えしています。
     例えばimpossibleという単語。Longmanでも「S2」「W2」のラベル(このラベルの意味も、知らなければぜひ調べてください)が付く基本語ですが、The woman is impossible.となったらどんな意味でしょか。よく知っている単語だけに、「その女性は不可能だ」→「仕事ができない」、あるいは「その女性は(前後の文脈に合わせて何かを)することができない」などと考えてしまいがちですが、辞書を引けば「人・状況など〉我慢のならない, とても嫌な」(研究社・新英和大)という意味もちゃんと載っています。知っているという思い込みはとても危険です。
     学習者は多くの辞書を揃える必要はありません。そうですね、まず英和大辞典を2冊。『研究社新英和大辞典』、『リーダーズ英和辞典 第3版』、『ランダムハウス英和大辞典』あたりから選ぶと間違いないでしょう。それから学習者向けの英和辞典。これは『ウィズダム英和辞典』がお勧めです。主要な単語について、補足説明が細かく載っていて、単語のニュアンスをつかむのに役立ちます。そして英英辞書。これはインターネット上に無料で使えるLongmanやCOBUILDといった辞書があるので活用してください。そして、訳語だけでなく用法やニュアンスも読み込んで、翻訳に役立てていただきたいと思います。

  • 最後に学習中の方へのメッセージをお願いします。

    高橋さん

     「読むときも書くときも言葉を大事に」してください。書くときは当然、言葉を意識していると思いますが、読むときはさらりと流している人がいるかもしれません。自分の好きな小説を読むとき、ただ単に内容をつかむのではなく、その文体や言葉のリズムを楽しんでください。目の前に見えている言葉の一つ一つを大切にしながら味わってほしいのです。
     街角に貼ってあるポスターの日本語が「ちょっとヘンだな」と気づくのが翻訳者というもの。これも言葉を大切にしている証です。日本語を書く仕事だからこそ、言葉に敏感になってほしい。日常会話で「ら抜き言葉」を使ってもかまいませんが、書き言葉で同じように使ってしまったら、それは翻訳者失格です。
     日本語でも、使い方に迷ったら辞書を活用してください。英語の辞書同様、日本語の辞書にも、その言葉の意味だけでなく、用法も書かれています。用法について詳しいのは、『岩波国語辞典』か『明鏡国語辞典』あたりでしょうか。翻訳者を目指す皆さんには、辞書を手元に置いて、言葉としっかり向き合っていただきたいと思います。

【編集後記】
実務翻訳の現状、いかがでしたか。機械翻訳の参入を脅威に思う人もいるかもしれませんが、考えようによっては、機械的な翻訳は機械に任せて、人間に求められる翻訳の仕事がよりクリエイティブなものになっていくということかもしれません。そこで実力を発揮できる翻訳者になるためには? そのヒントがたくさん詰まったインタビューだったと思います。ぜひ、参考にしてください。

高橋 聡<たかはしあきら>さん
プロフィール
高橋聡さんのプロフィール写真

フリーランス翻訳者。フェロー・アカデミー講師。日本翻訳連盟(JTF)専務理事。1983年頃から副業としてマニュアルなどの翻訳に携わり、翻訳会社のローカライズ部門勤務を経て2007年からフリーランスに。JTFでは、広報委員、翻訳品質委員も務めている。媒体を問わず辞書が好き。

<関連リンク>
ブログ「禿頭帽子屋の独語妄言 side A」

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