翻訳インタビュー「トランスポット」

   

出版翻訳者/アメリカ文学研究者
藤井光さん<後編>

「フェイク」が溢れる時代だからこそ考えたい
作家が作る、フィクションの意義

柴田元幸氏との出会いがあって、現代アメリカ文学の翻訳を手掛けることになった藤井さん。後編では、藤井さんが翻訳する際の手順や思い入れのある作品のエピソード、そして出版翻訳者を目指す方へのアドバイスなどをうかがいました。
前編をお読みでない方はこちらから。

音の響きや風の感触を、
登場人物と共有する

  • 前編でもお話が出ましたが、アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』が、2017年に第三回翻訳大賞とTwitter文学賞(海外)を受賞しましたね。藤井さんは作品の舞台となったフランスのサン・マロに行かれたそうですが、やはり現地を確かめておくのは翻訳するうえで有益なのでしょうか。

    藤井さん

    『すべての見えない光(新潮社)』の書影

     基本的には、小説の舞台となる土地が実在したとしても、翻訳者が必ずしも訪れる必要はないと僕は思います。大事なことは小説そのものにすべて書いてあるので。でも、訳していると土地にも思い入れが生じるので、やっぱり行ってみたくなるんですね。『すべての見えない光』のように、海の音とか、街路の風景が細やかに描かれていると、自分でもそれを感じてみたいなという気になってきます。
     またこの小説には、盲目の少女マリー=ロールが、建物を触りながら通りを歩いていく場面がたくさん出てきます。彼女が歩数や手に当たる排水管を数えながら歩いているサン・マロの通りは、実際にはどんなところか、自分で歩いてみようと思って、小説にしたがって動いてみました。サン・マロは小さな町です。石畳を歩いていくときの音の響きとか、城壁を抜けた先にある浜辺と海の音や風の感触なんかを、フィクションの登場人物と共有するというのは、とても不思議で忘れがたい感覚です。そんなこともあって、マリー=ロールが初めてサン・マロの海辺に出るところ(P.234~P.235)は、個人的に一番心に残っている場面でもありますね。

  • 他の作品でも、翻訳するにあたって実際に行かれたことはあるんですか?

    藤井さん

     初めて作品の舞台になる土地を訪れたのは、ロレンス・ダレルの『アヴィニョン五重奏(全5巻)』を翻訳しているときでした。アヴィニョンという町とその近郊の持つ空気感がすごく強調されていたので、5冊翻訳するならちょっと体感しておこう、と思ったのがきっかけです。訪れる前に自分が作っていた訳の原稿と、実際の町の印象はそれほど変わらなかったので、やはり大事なのは作品そのものなのだと実感したんですが、それと同時に、作品内のA地点からB地点までの距離感とか、市街のサイズ感などは、行って確かめてみると、より翻訳のときに人の動きが明確にイメージできることにも気がつきました。あと、ダレルが書いているとおり、アヴィニョンには美味しい料理が多かったので、二重に得をした気分でした(笑)。

  • 他にも、印象に残る訳書がありましたら教えてください。

    藤井さん

    『ロスト・シティ・レディオ(新潮社)』の書影

     やはり、サルバドール・プラセンシアの『紙の民』と、ダニエル・アラルコンの『ロスト・シティ・レディオ』でしょうか。『紙の民』は、大胆なレイアウト上の実験と奇想が炸裂しているだけでなく、カラフルな登場人物たちが次々に出てきて語り出します。なので、翻訳するときはなるだけ多様な「声」を使うことになって、訳している僕は毎日違う人間を演じているような気分でした。それがすごく楽しかったです。
     アラルコンは、文章がかっこいい、という一言に尽きますね。それに、アメリカでベストセラー作品を出したわけではなく、まだ十分に注目されていない若手作家を紹介できるというのは、とても贅沢なことなんじゃないかと思います。僕は誰でも知っている作家や話題の本にはあまり興味がなくて、ちょっとマイナーだけど優れている作品を読むほうが好きなので、その意味でも自分の気性にとても合った作家と出会えたことは幸運でした。
     その基準で言えば、ポール・ユーンの『かつては岸』も、当時はアメリカで出たあとは韓国と日本でしか翻訳されていなかったし、昨年翻訳したハンガリー系アメリカ人作家レベッカ・マカーイの短編集『戦時の音楽』もそうだし……と、思い入れを言い出したらきりがないですね。それだけ、僕は翻訳者として恵まれているのだと思います。

  • 『戦時の音楽』はこれから刊行されるんですよね。楽しみです。ほかにも、今後の刊行予定はありますか?

    藤井さん

     ブルガリア生まれの英語作家ミロスラフ・ペンコフの短編集『西欧の東』(仮題)が出る予定です。ちょっとした東欧ブームでしょうか。古典新訳もさせてもらう予定で、アメリカ人作家スティーヴン・クレインの戦争小説『勇気という赤い勲章』(仮題)も2018年に出せそうな気配です。あくまで気配ですが! そのあと、パキスタン生まれの作家モーシン・ハミードが難民の旅路を描いた長編小説『西への出口』(仮題)を翻訳して、できたら2018「年度」中に出せればいいなと思っています(笑)。あとはニューヨーク在住のアフリカ系作家ヴィクター・ラヴァルの怪奇小説『ブラック・トムのバラード』(仮題)にも取り組む予定です。翻訳が多い年になりそうで、つまりは2018年も楽しく過ごせそうです。

  • 楽しみにしています! 今後訳してみたいジャンルや作家、いま注目している作品などはありますか?

    藤井さん

     僕は古典にはあまり向いていない性格だと思うので、今後も新しい作家たちとの出会いを楽しみにしています。まだお話していない作家だと、例えばアブダビ出身のディーパク・ウニクリシュナン(Deepak Unnikrishnan)という作家がいて、オイルマネーで建設ブームの中東にやってくる出稼ぎ労働者の日常を、かなりの奇想で描いたりしているんですね。例えば高層ビルの建設現場で、事故で落下した労働者が、あちこち体が破れただけで死なずに転がっているので、それを夜な夜な見つけては縫い合わせる仕事の女性がいるとか。中東では英語で教育を受けた作家たちが育ってきているので、これから面白い小説が続々と出てくる予感があります。

  • 前編で、翻訳に個人的な手順があるとおっしゃっていましたが、どのように進められているのでしょうか?

    藤井さん

     今のところ、翻訳は第四稿まで作って完成させる、というのが僕の基本的な流れです。
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    ①第一稿は、原文を日本語に直していく作業です。B4サイズの裏紙(要するに、過去の翻訳の初校・再校ゲラの紙)に、原文を見て思いついた日本語を書きなぐっていって、とにかく1冊の本を最後まで進めます。

    ②裏紙に書いた日本語を、できれば2週間くらいでパソコンに打ち込んでいきます。打ち込みながら、全体の語りのトーンとか訳語の選択などを修正していきます。たいてい、第一稿の最初のほうはいまいち語り口もつかめていなくて、最後のほうになると作品の持つ質感に僕のほうが合わせられているので、最後あたりのトーンを優先して、原稿の前半をチューニングし直すような感じでしょうか。

    ③打ち込んだ原稿をプリントアウトして、原文と照らし合わせます。誤訳がないか、あるいは原文からずれた訳になっていないか、そして、大事な場面で訳し忘れた「抜け」がないかをチェックしていきます。これ、あるんですよ。不治の病なんで(笑)。この②と③が第二稿です。

    ④あとは日本語のみを推敲します。第三稿では、英語に引っ張られすぎていて日本語として不自然な箇所を中心に修正します。かといって、あまりに日本語の自然さを追求しても原文の色合いが消えてしまうので、やりすぎないように気をつけています。

    ⑤第四稿は、文の長さを調整したりして、「文章のリズム」を整えることが基本的な作業です。できれば一日のうちに最初から最後まで読み通して、全体のリズム感が同じものになるようにします。これは長編でも短編集でも同じです。
    ⑥完成したら疲れ果てて、熱を出します(笑)。回復して頭がすっきりしたら、次の作品に取り掛かります。
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  • 発熱まで手順に入っているんですね(笑)。誰かに下訳は依頼されないんですか?

    藤井さん

     今まで頼んだことがないですね。これからも頼まないと思います。僕は大学で教師をしているので、学生に下訳を頼むことは環境的には可能ですが、手間のかかる作業を学生にさせて、教師の名前だけが出る、というのはあまり健全ではないと思います。たとえ学生であっても下訳を頼むくらい信頼できる人がいるなら、僕は共訳の形を選びます。

翻訳が好きだという偏愛を持ち続け、
育むことが大事

  • よく使う辞書などはありますか? 学習者にとってこれは役に立つ、という書籍などもあれば教えてください。

    藤井さん

    『文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち(フィルムアート社)』の書影

     辞書は標準的なコンテンツの電子辞書しか持っていないのですが、まあそれで致命的な誤訳や語彙不足に苦しむこともなかったので大丈夫かな、という感じでしょうか。出版社はどこでも良いので英和大辞典と、語彙が豊富な『リーダーズ・プラス』が入っていれば、単語の意味はほぼカバーできますし、あとは活用辞典があれば、言い回しが標準的なものか作品独自のものかは、ある程度まで判断できます。
     あと、翻訳者の西崎憲さんが『文芸翻訳入門』で書いておられますが、文芸翻訳を目指すのであれば、参考書よりも日本の現代作家による小説を読むほうが、日本語力の向上に役立つと思います。たとえば、僕は松田青子さんの小説を家族相手に読み上げるのが好きなんですが、語り口調を少し硬くしたり軟らかくしたりといった語感の作り方を学ばせてもらっていると思います。
    結局のところ、大事なのは翻訳が好きだという偏愛を持ち続けて育んでいくことだと思うので、翻訳家が書いたエッセイとか、翻訳について語る場とか、とにかく翻訳について語る言葉に触れる機会を持てれば、モチベーションの維持になるんじゃないでしょうか。翻訳好きにはいい人が多いというのが僕の持論なので、心の健康に役立つという利点もあるかもしませんし(笑)。

  • 出版翻訳者を目指すうえで、どんな心構えが必要だとお考えですか?

    藤井さん

     2017年の夏休みに、僕の勤めている大学のオープンキャンパスがあって、僕は学科紹介のブースに座っていました。英文学科ではこういう勉強ができて、留学制度はこうなっていて……という説明をする係だったので。すると、「自分で翻訳した本がある」という高校生がそこに現れて、その本を出すためにどうすればいいのかという相談が始まりました。思い入れのある本を自分で翻訳して出したくて、原稿はもうある、という話で、とりあえずその場では、第一章の翻訳に僕からちょこちょことアドバイスをさせてもらって、電子書籍の出版社もあるから、という話をしました。
     その後、その高校生は電子書籍の出版社に実際に売り込みに行ったそうで、共訳者をつけたうえでクラウドファンディングの企画にする、というところまで話が進んでいるそうです。それが順調に行けば、実際に出版されることになります。
     僕にとっても前代未聞の話だったんですが、ちょっとやそっとのことでは諦めずに自分から動くというのも大事なのだな、とそのとき分かりました。小規模でもこだわりをもった取り組みをしている出版社はたくさんあるので、自分にとって特別な本を翻訳出版したい、と思ったときには、あちこち訪ね歩いてみるのもいいのかもしれません。
     同時に、文芸翻訳はかかる時間や労力に比べて、それほどお金が戻ってくる世界ではないので、「コスパ」ってなにそれ? というくらいのメンタリティーがあるほうが翻訳に集中できると思います。

  • では最後に、これから翻訳者を目指す方や学習中の方へのアドバイスをお願いします。

    藤井さん

     翻訳者に求められる数あるスキルのなかで、僕が最重要かつ最難関だと思っているのは、「締め切りを守る」能力なんです。文芸翻訳の場合だと、締め切りが延びることにはわりあい寛容な文化があるので、そのなかで締め切り厳守を貫けば、結構目立つことができるかもしれません(笑)。というのは冗談半分ですが、例えばハリウッドから出た“Me Too”運動がすぐに世界中に拡散したように、日本もそれ以外の国も、同じ空気を共有している側面はあるわけです。そのなかで出てくる小説は、なるだけリアルタイムで翻訳出版するほうが、よりよく理解されると思うんですね。もちろん、時代を超える傑作だとそんな心配はいらないですが。そうした状況もありますから、なるだけ仕事は早いほうがいいと思いつつ、僕自身はだんだん締め切りが守れなくなってきているので、この課題は次世代の翻訳者の方々に託そうと思います(笑)。
     あと、新刊の情報や反響は、インターネット上やSNSでわりとすぐに情報が手に入ります。でも、日本の出版社がそれをすべて追うことはできないし、読者もすべて読むことはできないので、翻訳者が「癖のあるフィルター」のように機能することも大事かなと思います。奇妙な世界のなかにリアルな感情がある作品が読みたいなら岸本佐知子さんについていけばいい、とか。そういう「癖」は、個人の偏った好みをとことん追求して出てくるものだと思うので、ブームとか話題とかに惑わされずに自分の好みを追いかける嗅覚があれば、他の人の入り込めない自分の場所を作れるんじゃないかと思います。

【編集後記】
クスッと笑わせるお人柄が印象的な藤井さん。文学や翻訳に対する考え方やこだわり方に共感と、何より憧れを持った方は多いのではないでしょうか。このインタビューを、自分も次に続こう、というモチベーションにしていただきたいと思います!

藤井光さん
プロフィール
藤井光さんのプロフィール写真

1980年、大阪府生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了、同志社大学文学部英文学科准教授。
訳書に『死体展覧会』、『すべての見えない光』、『煙の樹』、『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、『紙の民』、『タイガーズ・ワイフ』、『夜、僕らは輪になって歩く』、など多数。著書に『ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』、編著に『文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』など。

<主な翻訳作品・著書・編著>

  • 『すべての見えない光』(新潮社)

  • 『死体展覧会』(白水社)

  • 『煙の樹』(白水社)

  • 『ロスト・シティ・レディオ』(新潮社)

  • 『かつては岸』(白水社)

  • 『アヴィニョン五重奏I』(河出書房新社)

  • 『紙の民』(白水社)

  • 『ターミナルから荒れ地へ - 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』(中央公論新社)

  • 『文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』(フィルムアート社)

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