WORKS
インバウンド事業と、翻訳
翻訳対象となる情報にはどのようなものがあるのでしょうか。
約5年間、新潟県庁で翻訳業務に携わっていた小泉素子さんのご経験をふまえながら、教えていただきました。
観光だけでなくビジネスも
訪日客の需要に応えるための情報が、すべて翻訳業務の対象になる
政府が、訪日PRの「ビジット・ジャパンキャンペーン」を開始したのが2003年。日本政府観光局が2016年1月に発表したところによると、2015年度のインバウンド(訪日観光客)数は、前年比47.1%増の1,973 万7千人と過去最高を記録し、年間の訪日観光客による消費総額は3兆4,700億円(前年比47.1%)にも及んだそうです。インバウンド事業は、今や日本の経済を下支えする一大産業と言えます。特に地方都市でのインバウンド事業の成長は、インバウンド消費による経済効果だけではなく、少子高齢化する地域に新たな産業を生み出し、人口や雇用の機会が増えるといった地域の活性化も意味します。
新潟県も、日本海側という土地の利を活かし、ロシア、中国、台湾、韓国を含む北東アジアからの誘客に積極的に取り組んでいます。また、雪国新潟が誇るスキーリゾートと温泉文化をアピールするイベントや、在県外国人に添乗員として協力してもらい、県内の観光スポットを巡るツアーを開催しています。彼ら(添乗員)から出る集客のための改善案を、観光業務のトレーニングや観光パンフレットの作成に役立てるなど、インバウンド取り込みのため積極的な活動を継続しているようです。
訪日観光客とひとくちに言っても個人旅行か団体旅行かによって必要な情報は異なります。またビジネスで来日する方も少なくありません。そういった様々な訪日客の需要に応えるための情報は、すべて翻訳業務の対象になります。内容としては、交通手段や宿泊先といった基本的な情報や、その地域ならではのお祭りや行事、歴史的建造物や観光スポット、食文化などを紹介するためのパンフレット、Webサイト、ポスター、看板などです。訪日目的が多様化する中、コスプレイベントや工場見学ツアーの開催案内、桜の開花状況やスキー場の降雪状況の更新情報まで、翻訳が必要となる情報の種類もより多岐にわたるものとなってきています。
パンフレットやWebサイト、観光施設の看板や表示などの翻訳情報は、できるだけ多くの方に利用してもらうことが目的です。一方、県を訪問する農業研修生への事前情報や旅行会社のプロモーション資料など、文書の利用者が具体的に分かっている場合には、その目的に合わせ、マニュアルやプレゼン資料などの形で準備することもあります。
いずれの翻訳も、分かりやすい訳でなければなりませんが、使う英語のレベルや表記の仕方は、文書の利用者や目的によって少し変わってくると思います。日本を訪れる方の中には、英語が母語でない方もたくさんいます。今でこそロシア語、韓国語、中国語、やさしい日本語などで情報提供する場合もありますが、私が勤務していた当時は英語のみの場合がめずらしくありませんでした。そのため、Webサイトやパンフレットなどは、英語が母語でない方でもあまり大きな負担とならずに情報を利用していただけるよう、また言語レベルのまだ低い若年層の利用者にも配慮して、あまり難しい単語を使わず、シンプルな構文で一文を短めに翻訳することを心がけていました。一方、各国の旅行会社の担当者を招いて行なうプロモーション用の資料や、地場産業の金属加工や養鯉、農業や酒蔵に焦点を絞った資料などの翻訳は、利用者が、ある程度の日本文化に関する知識や、その分野に対する興味をお持ちであることを前提に、専門的な単語や表現を用いて翻訳し、必要に応じて日本語での表記や読みといった情報も併記していました。
例えば、「鎚器銅器/ tsuiki-doki / hand-hammered copper wear」のように「日本語/読みをイタリック体/翻訳文」といった並びで記載します。包丁や調理器具の商談会のお手伝いで通訳をさせていただいたことがありますが、包丁の説明で「Chef’s knife」と通訳したところ、アメリカ人のバイヤーから「Gyu-to(牛刀)」と正され、驚いたのを覚えています。またフードジャーナリストの県内視察に同行した際にも、料理の説明だけではなく、日本語の料理名を尋ねられました。当然といえば当然のことですが、その道のプロは、その国のものは、その国の言葉で覚えるものなのだな、と実感しました。「のっぺ」が何なのかを知らなくても、「のっぺ/ noppe / vegetable stew with fish broth, Niigata local cuisine”」と書けば、すぐにどんなものかをご想像いただけるのではないでしょうか。
世界に向けて、新潟の魅力を発信
私が県庁に勤務している期間に、佐渡金銀山の世界遺産登録に向けた取り組みや2008年G8労働大臣会合および2010年APEC農業大臣会合など大きな催事がありました。こういった催事は、世界に向けて新潟の魅力を発信するための最高の機会であり、県は市区町村と連携し、その誘致および開催に向けてかなりの時間と労力を費やします。県庁の英語チームとして私が直接関わった部分は、そのほんの一部分ですし、限定的な情報ではありますが、各催事に関する県の取り組みと、実際に行なった翻訳業務についてご紹介したいと思います。
《佐渡金銀山の世界遺産登録に向けた活動》
■遺産群の調査活動
イングリッシュヘリテッジ(イングランドの歴史的建造物を保護する目的で英国政府により設立された組織)から専門家を招聘し、現地視察を実施。歴史的建造物の保護や遺産登録に向けてアドバイスいただき、基調講演を行っていただきました。
*翻訳業務*
・海外専門家への現地視察資料(佐渡金銀山の歴史、当時の金採掘方法や精製技術に関する資料)の英訳
・登録に向けた専門家からのアドバイス概要の和訳
■開発から遺産群の景観を守るための活動
県民や市民の気運醸成のため展覧会やシンポジウム、遺産群の視察ツアーなどを継続的に実施。
*翻訳業務*
・外国人向け視察ツアーに係る資料の英訳など
今現在も佐渡金銀山遺跡群の世界遺産登録に向けた取り組みは継続中です。
《G8労働大臣会合 APEC農業大臣会合》
■誘致活動
*翻訳業務*
・誘致概要プレゼンテーション資料(会議場や宿泊施設、開催季節の天候や景色、当県ならではの観光資源やおもてなしの趣向の紹介文を英訳)
・関係者の現地視察ツアー資料(報道発表、ツアー・スケジュール、訪問する観光資源紹介文、夕食会メニュー、知事あいさつ文の英訳)
■誘致決定後
*翻訳業務*
・各国大使館職員による現地視察ツアー資料(本会議場および予備会議室の設備や警備体制の確認、交通ルートや宿泊先ホテルの立地、部屋サイズ、部屋数などの確認といった実務レベルの視察)
また、県民・市民の気運醸成の一環として、G8労働大臣会合の際には、世界8カ国の子供たちによる「ジュニア労働サミット」を開催し、APEC農業大臣会合の際には、大使館職員が、地元小学校を訪問するプレイベントを実施しました。小学生と一緒に稲付け体験をし、学校給食を試食した際には、給食での地産地消の取り組みを英語で紹介しました。スケジュールや知事あいさつ文などはあらたに作成しましたが、その他の翻訳は、誘致活動で準備した翻訳文書が活用できます。実際に会議がはじまると、翻訳業務はほとんど発生しません。代わりに今度は通訳業務が中心となります。
大きなイベントに携わった経験は、新たな挑戦の機会に踏み出すための精神的な支えになった
規模の大きな催事になればなるほど、関係機関が増えるのが常です。関係機関が増えれば、最終原稿がまとまるまでに時間がかかります。翻訳経験の浅い私にとっては、締め切りが迫る中、かなりの緊張感で翻訳作業を行ったことを覚えています。ありきたりの表現になりますが、苦労が大きければ大きいほど、成し遂げたときの達成感は大きいものです。微力ながら大きなイベントに携わることができたことは、翻訳という仕事そのものに対する充実感や自信につながっただけではなく、その後何度となく訪れ、今後も訪れるであろう新たな挑戦の機会に、不安や躊躇する気持ちがあっても、それに負けずに一歩前に踏み出すための精神的な支えとなっています。
インバウンド事業で扱う文書の翻訳は英訳がほとんどですが、多くは、その地域の風土に根ざして醸成された観光資源に関するものなので、英語的発想を鍛えるだけでは、その魅力を伝えることができません。日本人だからこそ分かったつもりで実は表層的にしか理解できていない地域の風土や歴史、文化、宗教観といったものに対する認識を深める努力を日頃から意識して継続することが必要なのだと思います。残念ながら短期的にめざましい成果がでるものではなく、相変わらず翻訳のたびに思考錯誤を繰り返しています。思考錯誤の苦しい時間も、結果として何らかのかたちで自分の血(知)となり肉となっていると思えば、決して悪くはないものと思えます。
取材協力
小泉素子さん
短大を卒業後、大学や英会話スクール、外資企業での英語関連の業務に就いたのち、2006年から約5年間、新潟県庁にて翻訳業務に携わる。現在は化学メーカーに社内翻訳者として勤務。2015年からフェロー・アカデミーの通信講座「ベータ応用講座「契約書」」「翻訳入門<ステップ18>」を受講。