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変化するIT分野の翻訳
いつの時代にも選ばれる翻訳者になるために

会社員時代に副業として翻訳を始め、現在はフリーランス翻訳者としてIT・テクニカル分野を中心に活躍している高橋聡さんにお話をうかがいます。
日本翻訳連盟(JTF)の専務理事も務められている(2019年4月現在)高橋さんは、業界事情についてもよくご存じです。

ITはマニュアルから「マーケティング翻訳」へ

私の専門であるIT・テクニカル分野でよく使われるようになった言葉に「マーケティング翻訳」と「トランスクリエーション」があります。言葉自体は以前からあったのですが、これがIT翻訳の業界では従来の意味とは少し違ったニュアンスで使われていると個人的には思っています。これらの言葉が最近のIT翻訳の傾向を表しているかもしれません。

 

ITの分野はかつて、実務翻訳のなかでもわりと参入しやすい分野だと言われていました。1995年にWindows 95が発売されると、パソコンユーザーが爆発的に増え、PC関係のマニュアルやヘルプの翻訳需要が一気に伸びたのです。マニュアルやヘルプは翻訳量が膨大で、多くの翻訳者を必要としました。定型的な文が多く、ITの知識は必要でしたが、わりあい平易な英語で書かれていたので、新人の翻訳者が仕事を始めるためのハードルが低かったということでしょう。実際は、決して易しい仕事だけではなかったのですが、この頃の安易な認識のせいで、質の良くないIT翻訳が世の中に氾濫することになったと思っています。

 

大量の翻訳を短期間で処理するために、翻訳支援ツールも生まれました。過去に翻訳した原文とまったく同じか、あるいは似たような文章については、過去の訳文を活用できるという仕組みです。

 

このような状況は2000年代に入る頃まで続きましたが、その後、マニュアル・ヘルプの翻訳需要が減っていきます。かつては「仕事の9割がマニュアルやヘルプの翻訳」という時期がありましたが、最近は全体の2〜3割程度に減ってきています。

 

ではIT翻訳の全体量が減っているかというと、そういうわけではありません。マニュアル翻訳に代わって出てきたのが「マーケティング翻訳」なのです。

 

マーケティングに関する文書の翻訳は、本来、ITに限らず実務翻訳のどの分野でも存在します。例えば、お客様向けのWebページ、営業のためのパンフレットやカタログ、企業が発信するニュースやブログといったものです。自動車でも、食品でも、何かの材料でも、どんな分野にもマーケティングに関する文書の翻訳ニーズは昔からあり、それぞれの分野の翻訳者が翻訳してきたはずです。

 

では、IT翻訳で特に「マーケティング翻訳」という言葉が使われるようになったのはなぜか。

 

かつて主流だったマニュアルやヘルプは、内容が正しければ日本語が多少読みにくくても許容されるところがありました。ところが、お客様向けのWebページやパンフレット、ニュースとなると、違います。正しく読みやすい文章や、読む者に対する訴求力が求められます。マニュアル・ヘルプの頃とのニーズの違いを明確にするために「マーケティング翻訳」と称して区別しているというわけです。

 

もうひとつのキーワード「トランスクリエーション」は、“トランスレーション”と“クリエーション”を合わせた造語で、もともとは翻訳にコピーライティング的な要素を加味して、原文を離れてもいいから、思い切りクリエイティブな翻訳をする、という意味でした。

 

ところが最近のIT翻訳では、マーケティング翻訳で要求されているような、マニュアルなどよりも読みやすい、日本語としてこなれた訳文にする、それを説明する言葉として「トランスクリエーション」と表現することが増えているんです。言葉の持つ本来の意味からは離れてしまっているけれども、何を言わんとしているかはわかるので、便利に使っているのでしょう。

 

翻訳者の求人でも「トランスクリエーションができる方は単価を上乗せします」といったことが書かれているのを見ますし、仕事の依頼でも「トランスクリエーションでお願いできますか」と言われたりします。そんな場合は、原文とつかず離れずの翻訳ではなく、思い切って意訳してもいいんだな、と受け取っています。トランスクリエーションは、出版翻訳の勉強をしてきた方にとっても面白い仕事かもしれません。読み物に近いようなニュース原稿を私自身も訳すことがあります。

 

かつてマニュアル・ヘルプの翻訳をしていた翻訳者で、マーケティング翻訳に移行できるスキルを持っている方は移行しています。しかし、そのニーズに応えきれない翻訳者もいます。そういう人は、おそらく仕事が減ってきているんじゃないかと思います。いま以上に機械翻訳が使われるようになってくるでしょうから、実務翻訳の現場はますます変わっていくと思います。

確実に勢力を伸ばす、機械翻訳と共存するためには?

翻訳支援ツールを使って過去の訳を活用しながら新規の部分を翻訳者が翻訳し、それをチェッカーがチェックする。 そういうフローの一部を機械に置き換えるのが、機械翻訳です。最近の機械翻訳は、文のルールを考えて訳を組み立てるのではなく、蓄積された大量のデータを活用して新たな訳文を構築します。ただ、まだ機械翻訳の出力する訳文はそのままでは使いものにならないので、最終的に人間が見て、間違いを直し仕上げる。その仕事をポストエディットといいます。

 

単純に、いままで翻訳者とチェッカーの2人が関わっていた仕事が、ポストエディターの1人だけになる。クライアントとしてはコストダウンになるというわけです。そんなふうに動いている現場が実際にあると聞いています。

 

私自身もポストエディットの仕事を打診されたことがあります。ただ、私や、私の知り合いの翻訳者はたいてい断っています。これは私の考えですが、ポストエディットは自分の言語運用能力に影響しそうだからです。翻訳支援ツールにも似たようなことが言えるのですが、過去の翻訳を利用するということは、自分がゼロから翻訳を考える場面が減るんです。そういう仕事ばかりしていて、影響がないはずがありません。

 

ポストエディターという仕事は、今後増えていくと思いますし、プロのポストエディターが育っていくのは必要なことだと思います。しかし翻訳者を目指す学習中の人が、参入しやすいということでポストエディターの仕事に就くことは、翻訳の仕事を目指すうえではリスクが大きいと思います。

 

2016年秋にGoogle翻訳がニューラルネットワーク翻訳を導入してから、機械翻訳の性能が格段に上がったと言われています。ポストエディットの手間が以前に比べるとかなり減ったと。そうなると機械翻訳を使いたいというクライアントも増えてくると思いますので、翻訳者の需要が減っていくことが予想されます。 機械翻訳に取って代わられる一番の候補が、マニュアルやヘルプの翻訳です。定型文が多い文書は機械翻訳が得意とするところですから。IT以外の、例えば自動車や医療機器などでも、マニュアルやヘルプは機械翻訳が入ってくる可能性が高いですね。特許翻訳も、ヨーロッパ言語間ではだいぶ前から機械翻訳が広がっており、日本語でもその波は避けられそうにないと言われています。反対に、機械翻訳が参入しづらいのは、金融や法務の分野のようです。

フリーランスの翻訳者として生き残るために

翻訳料の相場についても、残念ながら全体の相場は下がり続けています。特に、機械翻訳の参入が見られる分野は、翻訳単価の値崩れが起きていますね。

 

翻訳単価の値崩れの原因は、日本語という言語構造も関係していると思います。世界規模で見ると、日本の翻訳市場はある意味、特殊です。例えば、グローバル企業がある文書を多言語展開するとき、英語とヨーロッパ言語との間の翻訳では、言語の類似性が有利にはたらきます。ところが英語から日本語にするとなると、言語構造が大きく違うため、そう簡単にはいきません。そのため日本語が絡むドキュメンテーションの翻訳は別の予算を立てて日本の翻訳会社に任せるというのが、かつてのやり方でした。

 

ところが、日本語だけ特別扱いするという時代は終わり、どんなに特殊であろうと多言語展開の一言語として他と同じ予算で行ってくださいという時代になってきたんです。簡単に言えば、予算が縮小されることになった。翻訳支援ツール、さらには機械翻訳の導入というのはもはやグローバルな潮流で、日本語もそこから逃れられなくなっています。 ですから厳密に言えば、機械翻訳の導入によって翻訳料の値崩れが起きているのではなく、日本語への翻訳の予算枠が縮小されたことによって、翻訳単価が下がり、機械翻訳の導入が進んでいるということなのです。

 

時代の流れによって状況が変化するのは致し方のないこと。翻訳料の相場が下がったいま、フリーランスの翻訳者として生き残るためには、翻訳者自身が時代のニーズに合わせて進化していくことが大切です。例えば、翻訳単価が下がったのであれば、翻訳スピードを上げて、同じ時間でこなす翻訳量を増やすというのもひとつの手です。

 

また、マニュアルやヘルプ以外の仕事にシフトしていくというのも効果的な対処法です。IT以外に何か得意分野を持つことができれば心強いですね。例えば、IT系企業の社内文書のなかにも法務の絡むものがあります。依頼されたIT系の翻訳者が「法務は苦手なので」と断るなか、「法務も専門です」と受けることができれば、これは翻訳者にとって大きな強みになります。ITと自動車、ITと医療、ITと金融など、なんでもかまいません。どんな分野でも複合的な知識が必要な案件はありますし、複数の専門分野を持っていれば、一方の分野が陰りはじめたらもう一方の分野に主軸を移すという対処のしかたも可能です。

 

翻訳という枠の中で多角化するという感覚です。まわりの翻訳者のなかにも、そのように仕事の範囲を広げている人は何人かいます。そう簡単なことではないので、誰でもすぐにできるわけではありませんが。機械翻訳の参入など、今後の業界の変化も見据えて、みんな悩みながら、自分はどうしようかと考えています。

実務翻訳者を目指して学習中の人に心がけてほしい3つのポイント

これから実務翻訳者を目指して学習中の人に、3つポイントをお話ししたいと思います。まず1つめ。翻訳の仕事をするうえで一番大事なこと、それは「諦めずに調べものをする」ことです。それができない人は、おそらく翻訳者にはなれないでしょう。どんな得意分野であっても、調べものをせずに翻訳を完成させられることはありません。調べものは、翻訳者に絶対に必要なスキルだと言えます。 実際の仕事になると締切という時間制限があるわけですが、その限りある時間のなかで諦めずにどれだけ深く調べられるか、これが翻訳の精度につながります。

 

ところが、講座の受講生を見ていると、調べ方が足りない人が多い。例えば、専門用語が出てきたら、その単語を辞書で引いて、そこに載っている訳語を何の裏取りもせずにそのまま使う、そういう人がいます。それでは本当に「翻訳をした」とは言えません。その訳語が本当に正しいのかどうか、翻訳者なら十分に検討しなければなりません。出来上がった訳文をGoogleでフレーズ検索してみてください。そうすると、辞書に載っていた専門用語のはずなのに、ちっともヒットしないということが往々にしてあるんです。それはつまり、実際にその分野の現場でその言葉は使われていないということです。

 

それがわかったら、では実際に使われている訳語は何か、調べなければなりません。原語に戻って、英文のフレーズ検索をしてみます。そのフレーズが出てくる英文全体を読み、何についての文章なのか見当を付けます。それと同じ内容の日本語の文書を探し、英語の文書と対比させます。内容を読み比べていくと、英文のこのフレーズにあたる日本語はこのフレーズで、つまりこの専門用語は日本語ではこう言われている、というのが見えてくるはずです。

 

探し当てた訳語で訳文を作り、最後にもう一度、出来上がった訳文のフレーズ検索をしてみます。正しい訳語であれば、日本語の似通った文書がいくつもヒットするはずです。 辞書に載っていない訳語でもいいんです。実際に現場で使われているのが確認できれば、それが正しい。そこまで深く調べることが大切です。

 

そしてポイントの2つめ。翻訳単価が下がっているいま、翻訳スピードを上げることも重要ですがそれは仕事をするうえでのこと。勉強中の人は、速く訳そうなどとは決して考えずに、どれだけ時間をかけてもいいので、じっくりと翻訳に取り組むことが重要です。

 

私の授業では毎回400ワードほどの課題を出しています。実際の仕事なら1時間か、せいぜい2時間で仕上げなければならない量ですが、学習中なら1週間たっぷりと時間をかけて取り組むくらいでもいい。スピードは、学習が進むにつれ次第に上がっていくものです。学習中に追求するのはスピードではなく、翻訳の内容のほうです。

 

翻訳スピードアップのほうには、2つのアプローチがあります。ひとつは、翻訳とは関係なく「パソコン操作の面で効率化を図ること」です。例えば、よく出てくる専門用語は単語登録しておきます。“トランスレーション”と毎回9文字を入力するのではなく、“トラン”と単語登録しておけば3文字打って変換すればいいので1秒ほどの時間短縮になります。他にも時短の方法はたくさんあり、それが積み上がれば仕事を2、3割ほどスピードアップすることが可能でしょう。パソコン操作系のスピードアップは翻訳の勉強とはまったく別のところなので、興味のある方はいますぐ始めてもかまいません。翻訳の勉強と並行して進められると思います。

 

もうひとつのアプローチが「翻訳に慣れること」です。これは先ほど言った、学習が進むにつれ自然と速く訳せるようになっていく部分です。例えば、訳し方のパターンやコツは、覚えたての頃は意識しないと上手くできませんが、何度も繰り返すうちに、無意識に短時間で訳せるようになっていきます。そうやって無意識にできるようになるためには、じっくりと時間をかけて意識的に訳す段階が必要なのです。

 

では最後にポイント3つめは、翻訳スキルではありませんが、モチベーションを維持して集中的に学習するのがいいという話です。翻訳を仕事にしたいと真剣に考えている人は、例えば「3年で翻訳を仕事にする」など、明確な目標を持ったほうがいいでしょう。私の講座の受講生のなかにもそういう方がいましたが、目標がはっきりしている人ほど、目標達成率が高いように思います。定年まであと7年という会社員の方は5年計画を立てていました。会社を辞めて翻訳学校に通い始めて、1年で仕事にすると宣言した方もいました。自分で区切りを付けることで、いつまでにこれを勉強して、いつ頃からトライアルを受け始めるなど計画的に学習を進められるようです。

取材協力

高橋聡さん
フリーランス翻訳者。フェロー・アカデミー講師。日本翻訳連盟(JTF)専務理事。1983年頃から副業としてマニュアルなどの翻訳に携わり、翻訳会社のローカライズ部門勤務を経て2007年からフリーランスに。JTFでは、広報委員、翻訳品質委員も務めている。媒体を問わず辞書が好き。

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