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選ばれる翻訳者になるには
自分にしか作れない訳文を紡ぎ出すこと

劇場公開作品を中心に、吹替も字幕も手がける映像翻訳家、松崎広幸さん。
子どもの頃から映画館で映画を観るのが好きで、数多くの映画に親しんできたそうですが、意外にも翻訳にはまったく興味がなく、映像翻訳家になるとは夢にも思っていなかったとか。
しかし映画好きの少年は、映画監督を目指す青年になり、たどり着いたのが映像翻訳家という職業でした。
翻訳の勉強をまったくしてこなかったことを逆手にとって、自分の翻訳者としての武器としていきます。果たして、その方法とは?

好きな映画にのめり込み、大学時代は趣味もアルバイトも映画のみ!

父が映画好きで、小学生の頃よく映画館に連れていってもらいました。僕らの世代の映画好きは、テレビの洋画劇場などを見て好きになったという人も多いのですが、僕の場合はとにかくテレビより大きい映画館のスクリーンで見るのが好きだったんです。家から歩いて行けるくらいのところに街の小さな映画館があって、よく通っていました。そのうち、自分でも映画を撮りたいな、映画の道に進みたいなと漠然と思うようになって。邦画も洋画もどちらも見ていました。洋画は当時は吹替がなかったので字幕でしたが、字幕の翻訳をしたいとは考えませんでしたね。映像翻訳の仕事を始めた30歳の頃まで、翻訳をやりたいと思ったことは、実はまったくなかったんです。

 

映画を作りたいとはぼんやり思っていましたが、映画監督が夢だったわけではなく、中高時代はスポーツが好きで運動選手になれればいいなと思っていました。でも、大学で体育会に入ったものの辞めてしまって……。そのあとですね、本格的に映画の道を模索するようになったのは。時間ができてからは、映画を毎日3、4本、年間1000本以上見ていました。映画関係のアルバイトも始め、当時はロマンポルノなどを製作していたにっかつ(日活)で助監督を経験しました。助監督といっても数人いるうちの一番下っ端だったので、通行人を止める役とかね(笑)。にっかつに入社して何年か助監督をやれば監督になって映画を撮らせてもらえたのでその道を目指そうかと思っていたのですが、僕がバイトに入った頃にはビデオが主流になってきていて、にっかつもどんどん縮小傾向で、「助監督やってても監督になれないよ」と言われて。結局、バイトをやってると映画を見る時間もないので、2、3本やっただけで助監督のバイトは辞めました。

 

その頃には、日本では映画監督を仕事にしてもちゃんと暮らしていくのは難しそうというのがだんだんわかってきて、将来の職業としては考えていませんでしたね。当時から仲間と一緒に自主制作で8ミリ映画を撮っていたので、そういうことはやりたいなと思っていましたが。

 

他には、御茶ノ水のアテネ・フランセ文化センターでアルバイトをしていて、そこで35ミリのフィルムを映写機にかけるやり方も教わりました。そうそう、このとき初めて映画字幕のハコ切りをしました。セリフのどこからどこまでを一枚の字幕に収めるか、番号を振っていく、あのハコ切りです。「急いでるんだけど、翻訳者が忙しいみたいだから、適当な長さで区切っていって」とスクリプトを渡されたんです。その時は何も知らないから、言われたとおり適当にポンポンって区切っていって。もちろん最終的には翻訳された方が直したんでしょうけど、字幕はこんなふうに作っていくんだなって、初めて知りました。

大監督への道、不合格を目指して渡仏!?

映画にどっぷりつかった大学生活でしたが、卒業してすぐに会社に勤めようという気持ちがあまりなくて……、いくつか出版社なんかを受けるには受けたんですが。フランスにIDHEC(イデック)という超難関の映画学校があったんです。この入学試験を受けたかったんです。いや、実は入学したかったわけじゃなく、この学校の入試に落ちると大監督になるという言い伝えがあって。じゃあ、そこを受けて落ちてやろうと。なにせ景気の良い時代だったので、1年くらいつぶして帰ってきても、就職先はいくらでもあったから、親を説得して渡航費用を借りました。

 

この計画を思いついてから実行に移すまで半年くらいあったので、その間、独学でフランス語を勉強しました。学校にでも通えば効率よく身についたのかもしれないけど、独学主義みたいなところがあって。それから語学習得に対する自信みたいなものも多少はあって。

 

日本で半年、それから向こうで1年間暮らしながら勉強して、なんとか試験を受けようと思っていました。ところが渡仏してから調べたら、IDHECは前年の入試を最後に、次年度以降は新入生をとらないというんです。間抜けな話ですが、インターネットのない時代、日本にいて得られる情報は限られているので仕方がありません。まあ、せっかく来たんだから1年間は過ごして帰ろうと腹を決めました。

 

フランスでは日本とは桁違いに映画がたくさん上映されています。映画ばかり見ていましたね。フランス人の友人もできたので、フランス語もちゃんとできるようになって帰ろうと、さらに勉強しました。フランス語は書くのは難しいですが、話すのと聞くのはそこそこできるようになりました。

 

フランスに渡って7~8カ月ぐらい、言葉も多少はできるようになった頃に、父の知り合いのテレビ制作会社の人から、通訳のアルバイトを頼まれたんです。パリで大相撲の巡業があって、日本人スタッフとフランス人スタッフの意思疎通を図るくらいの通訳ができればいい、ということだったので、それくらいならなんとかなるかなと思い、引き受けました。ところが始まってみたら、それだけにとどまらず、当時はパリ市長だった、後のシラク大統領へのインタビューの通訳なんていう仕事もあって。僕の通訳でよかったのかどうかわかりませんが、それでも何とかこなしました。

 

パリで大相撲巡業のテレビ局の仕事を手伝ったのが気に入られたようで、日本に帰って間もなくテレビ番組制作会社の方から仕事の誘いをいただきました。ただ、かつて映画の道を志した者として、テレビの人間になることに抵抗があったんですよね。だから何度か誘われましたが、断り続けていました。

 

とはいえ、バイト生活をしながら、この先どうにかしなければと思っていたので、「今度、映画の番組が始まるんだけど手伝ってくれないか」と誘われたときには、テレビとはいえ映画に関する番組なら、と引き受けることにしました。それが1987年に始まった、フジテレビ系の『ミッドナイトアートシアター』という番組でした。当時は民放の映画番組というと夜9時のゴールデンタイムに吹替で放映されているものがほとんどだったのですが、この『ミッドナイトアートシアター』は深夜0時過ぎから、オリジナルの音声と字幕で、映画本編はノーカット、コマーシャルも入れずに放映するという画期的なスタイルでした。それから毎回ゲストが登場して、はじめに大まかな映画の説明をして、映画終了後は好きにしゃべってもらうという構成だったのですが、ディレクションは僕が丸々任されていたので、映画に合わせてゲストを選んだり、映画説明部分の原稿を書いたりもしていました。映画好きには打ってつけの仕事です。

 

しかも、映画本編はできあがったものがあり、前後の解説部分を作るだけなので、週に2日くらい働けば番組はできてしまうんです。それでも景気が良かった。あとの5日間は映画を見たり、仲間と8ミリ映画を撮ったり、好きなことがたっぷりできましたね。

 

そんな生活を5年くらい続けて、次に「語学ができるなら手伝ってくれないか」と声をかけられたのが『二か国語』という番組でした。洋画を一本紹介し、その中のセリフを取り上げて「実はこう言っているんだよ」と解説しつつ、「こんなセリフのほうが面白い!」と独自に翻訳したセリフを声優がアテレコするという教育バラエティ的な内容でした。僕は初めは単なる手伝いということで参加したのですが、放送台本を書いていた外国人の作家が2本目くらいで音信不通になってしまって、「来週の台本を書く人がいない。代役をやってくれ」と頼まれたんです。そしたら、なかなか出来がよかったから次も頼む、と言われて、結局それから10年ほど、その番組の台本を書きました。

自分には何が求められているか
「他の翻訳者とは違うセリフ」を書く

そのあたりからようやく本格的に翻訳の話になるのですが、テレビ番組の仕事を続けているうちに『ゴールデン洋画劇場』の吹替翻訳をやってみないかと声をかけていただいたんです。翻訳者の方がご高齢で勇退されることになり、代わりの翻訳者を探しているとのことでした。

 

当時のテレビの洋画放送は、元の台本と違ってもいいから、とにかく面白くしろという方向性だったんです。今なら誤訳と言われるかもしれません。それくらい違っていてもOKで、声優さんもアドリブを入れたりしていました。厳密に正しく翻訳しなくてもいい、だったら自分で台本書いて映画撮っているような若い者にやらせたほうが面白いんじゃないか、という判断で僕に白羽の矢が立ったようでした。

 

翻訳の勉強は一切していなかったので、まず何をどうすればいいかがわかりません。吹替の場合、日本語版台本に仕上げなければいけないので、その書き方を大まかに教えてもらい、参考にこれまでの台本を何冊かもらって、見よう見まねでやりました。

 

そもそも僕は、洋画は字幕で観る主義だったので、吹替ものをほとんど観たことがありませんでした。でも、逆にそれがよかったのかもしれません。「普通はこう訳す」という既成概念がなかったので、いままでの翻訳者が使わないような言葉づかいで訳す結果になり、それが「面白い。もっとやらせてみよう」ということになったようでした。最初は2カ月に1本くらいだったのが、徐々に増えてきて、最終的には僕ともう1人の翻訳者と交互に、2週間に1本の割合で訳すようになっていました。

 

吹替翻訳を始めてしばらくして、テレビ局のプロデューサーが映画会社に僕を紹介してくれたんです。それが1990年代中頃で、劇場で吹替版が少しずつ上映され始めた頃だったんです。最初に仕事をいただいたのはビデオの作品でしたが、それから少しずつ劇場の吹替版をやらせてもらうようになり、そのうち字幕も依頼されるようになりました。はっきりとは覚えていませんが、劇場公開作品で吹替版と字幕版の両方をつくるとき、1人の翻訳者に両方やらせれば統一がとれるから、といった理由だったような記憶があります。両方やらせてもらっているうちに、今度は字幕だけの依頼というケースも出てきて、今ではどちらの依頼も半々くらいになりました。

 

字幕のほうも吹替と同じで、他の人の作品を見て参考にしようという気にはなりませんでした。むしろ、今まで見てきた映画の字幕と違うものをつくりたいという思いがありますね。例えば、“間違いだと思う”を“間違いだと”とするように、字幕では字数制限があるゆえに、文章の最後の動詞まで言わずに省略してしまうことがあります。確かに多くの翻訳者はこうしているけど、僕はちゃんとした文章にしたい。できないかなぁ、と工夫をしたことはあります。でも、頑張りすぎると、いわゆる「吹替っぽい字幕」になってしまうこともあるので、そこは難しいですね。

 

学生時代のバイトも含めて、どの仕事でも常に自分には何が求められているかを考えながら仕事をしてきました。 例えば、映像翻訳という仕事で、僕が最初に認めてもらえたのは「他の翻訳者とは違うセリフ」を書いたからです。そのことをずっと意識していました。

 

ある映画会社の制作担当者に気に入られるきっかけになったセリフがあります。英語で“Dickhead”、辞書を引いていただくとわかりますが、まあ「ばか」「マヌケ」くらいの訳をつけるのが無難でしょう。そこを僕はあえて直訳調で、小学生の男の子が喜んで叫びそうな言葉にしたんです。そしたら「こんな日本語を使うヤツがいるんだ」と面白がられて、以来もう十年以上ずっと仕事をさせていただいています。

 

もちろん、ただ突飛な訳を書けばいいということではありません。かなりのドタバタコメディだったので、その作品の色づけを強く出したいという狙いがあってのことで、それが運よく成功したわけですが、翻訳者として選ばれるためには、時にはそのようなチャレンジも必要ではないかと思います。

何にでも、特に足を踏み入れたことのない世界に興味を持って、
知見を拡げることが大事

翻訳者を目指している方は、おそらく語学が好きで、ある程度得意な方でしょうから、外国語の勉強に関しては、特にアドバイスすることはないと思います。問題は、日本語能力のほうではないでしょうか。僕はもともと本を読むのも好きで、国語も得意だったので、日本語能力はそこそこあると思っていたのですが、やはり翻訳を始めてからは、うまく訳せないことがあり、もっと意識して勉強しなければと今でも思っています。

 

例えば、映画の中にニュースのシーンがあって、経済の専門家が株式市場について話しているとします。そんなとき、専門家はどんな用語を使い、どのような言い回しをするのか。僕は経済に強くないので、意識して経済新聞の記事を読むようにしています。それから、落語を聞きに行ったり、歌舞伎を見に行ったり。こちらは思いのほか楽しくて、今では趣味として定着しています。

 

それから江戸文学が好きで、けっこう読むのですが、その江戸言葉の言い回しが、西部劇のセリフで使えたりします。まったく知らない世界だと言葉も全然出てきませんが、少しでも馴染みがあれば、ちょっと調べればわかると思いますので、何にでも興味を持って、特に自分があまり足を踏み入れたことのない世界に興味を持って知見を拡げることが大事です。チャンスが訪れたときに、それを逃さないためにも、ぜひ頑張っていただきたいと思います。

取材協力

松崎広幸(まつざき ひろゆき)

 

子どもの頃から映画が好きで、映画監督を目指した時期もあったが断念し、フランス遊学を経て、テレビの映画番組制作の仕事に就く。その後、テレビ放送用の洋画の吹替翻訳を始め、やがて劇場公開映画の吹替翻訳、字幕翻訳を手がけるようになる。2000年頃から劇場映画翻訳の仕事に絞り、現在に至る。主な作品は、『パシフィック・リム』(吹替・字幕)、『スパイダーマン』『メン・イン・ブラック』(吹替)、『トランスフォーマー』『ソーシャル・ネットワーク』(字幕)など。

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