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実務翻訳のエキスパートが考え抜いた、
力の伸びが実感できる体系的な学習とは

実務翻訳家、吉本秀人さんのインタビューをお届けします。
トライアル審査に関わるなかで目にしてきた誤訳例を紹介しながら、最先端の金融・経済翻訳の情報を伝えていきたいという吉本さん。
専門をビジネス・経済翻訳に絞った経緯、実務翻訳の力を伸ばすための考え方などもあわせてお話いただきました。

情報の先端を扱うことが翻訳の役割のひとつ

大学を卒業したのは1980年代前半で、当時全盛だったニューメディア系のシンクタンクに就職しました。テレビやラジオといった既存の媒体から一歩進んで、ケーブルテレビなどの情報システムを企画してプレゼンテーションを行い、システム構築を受注するベンチャー企業です。

 

その仕事のなかで、ある自治体に福祉情報システムのプレゼンテーションをすることになりました。当時、日本にはないシステムでしたので、アメリカの事例を研究するために資料を取り寄せ、それを片っ端から翻訳しました。そうして知識を蓄え、日本でこの分野の第一人者だという大学教授に話を聞きに行ったのです。ところが、僕が英文資料から仕入れた情報のほうが新しく、逆に教授の方からいろいろと質問されることになりました。そのとき、情報の先端を扱うことが翻訳の役割のひとつなのだと実感しました。

 

その後、事情があって会社を辞めることになり、何とかして別の方法で稼がなければならないという状況になりました。そんなときに、『工業英語』という雑誌に出会ったのです。産業英語、ビジネス英語という世界があることを、この雑誌を読んで初めて知りました。英語は学生時代から好きな教科で、勉強もかなりしていました。4歳上の兄がいるのですが、中学生の頃から兄の受験参考書を読み、単語や英文を覚えたり、文法を学んだりしていたので、いわゆる受験英語には相当自信があったのです。ところが、この雑誌には「翻訳は受験英語ではできない」と書いてあります。実際、誌面に掲載されていた課題にチャレンジしましたが、歯が立たないのです。しかも、そこに書かれている回答例の英文が、研ぎ澄まされていてカッコイイ。そのとき、産業翻訳の世界を追求したいと思いました。

 

いろいろ調べてみると、日本翻訳連盟が実施する資格試験に「翻訳士」(※現在<ほんやく検定>として改制)というものがあることを知り、まずはこの資格を目指すことにしました。合格率の低い、かなり難しい試験でしたし、受験英語だけでは太刀打ちできないことはわかっていたので、一生懸命勉強しました。失業保険で食いつなぎながら、半年間みっちり取り組みました。その甲斐あって、運良く1回で合格。すぐに雑誌に掲載されていた翻訳会社20社ほどに履歴書を送りました。半分ほどの会社から返事が来て、トライアルを受け、徐々に仕事が来るようになったのです。

 

最初はジャンルを問わず、なるべく断らずにあらゆる仕事を受けていました。当時の主流だった機械、コンピュータなどの技術系に加え、経済、法律などのビジネス系、その他シナリオや学術論文など、ありとあらゆる分野の翻訳をしました。バブル全盛の時代だったので仕事は山ほどありましたが、正直いって内容はピンからキリまででしたね。3日間連続で徹夜ということもありましたし、1日最高80枚訳したこともあります。会社員のときには感じなかったやりがいを感じましたし、収入も上がりましたが、2年ほどこういう生活が続いて、ふと気付いたんです。このまま雑多な仕事を受け続けていたら、翻訳が下手になってしまうと。

 

頻繁に出てくる単語があって、それなりに訳してはいる。けれども、じっくり考えている時間がないから、本当の意味では理解しないまま、なんとなく訳している、ということに気付いたのです。この単語が出てきたら、こんな感じに訳せば切り抜けられる、という回路が頭の中にいくつもでき上がっていて、納得しないまま翻訳を量産している状態です。このままでは取り返しの付かないことになる、そう危機感を覚え、方向転換をしました。

 

受ける仕事の分野をビジネス・経済に絞ることにしました。さまざまな分野の翻訳をしてきた中で、ビジネス・経済は翻訳料金が高めだったということも理由のひとつですが、何よりも翻訳していて面白いと思ったのです。経済の翻訳では、今まさにニュースで流れていることや、あるいはニュースでもまだ流れていないような新しい情報を扱います。内容がドラマチックで、どんどん知識が増えていき、とても興味深いと感じました。

 

それにこの分野の知識を蓄えておけば、他の分野に移行したとしても役に立つだろうと思いました。実務翻訳の場合、コンピュータでも、医薬でも、法律でも、経済やビジネスの中で翻訳の発注があるわけです。そのベースの部分を押さえておけば、どんな分野の翻訳をする場合にも役立つだろうと考えました。

 

僕は実務翻訳に必要な英語力や知識をピラミッド型で捉えています。最下部でベースになるのが「学校で学ぶ英語(受験英語)力」、その上に「翻訳に必要な知識(英語力)」があり、次に「ビジネス・経済の翻訳に必要な知識」、それらをベースにした最上部にIT、医薬、特許、金融などの「専門分野の知識(翻訳力)」があると。いくら専門知識が豊富であっても、ベースとなる部分が抜けていると、よい翻訳はできないと思います。

 

今は主に、翻訳会社のトライアルの審査、クレームがついた仕事のチェックと訳し直しをしています。僕自身が合格を出した翻訳者さんでも、間違えることがあります。金融機関に勤めていたり、専門分野で実務経験の豊富な方が多いのですが、それでも間違えます。専門知識があるという自負があるだけに、ちょっと調べればわかることなのに、思い込みで訳しているといったケースも少なくありませんね。

 

翻訳の仕事以外には、講師として翻訳を学習中の方に教えていますので、講座では、今まさに第一線で活躍している翻訳者がひっかかった誤訳の例などを紹介しながら、生きた経済・金融翻訳の情報を伝えたいと思っています。

いったい何を学んだのか、何が身についたのか
それがしっかりと実感できる講座にしたい

講座を受け持つに当たって僕が考えたのは、授業が終わるたびに、自分はいったい何を学んだのか、何が身についたのか、それがしっかりと実感できる講座にしたいということでした。ただ、演習をこなして、重要表現やポイントを指摘するだけでは、受講生が学んだという実感は得られないと思ったからです。

 

例えば、経済関係の翻訳は、株式市場、証券市場、債券市場、為替市場といったマーケットに関係した文書の翻訳が依頼されることが多くなります。となると、それらの文書は、経済動向とマーケットがどのように関係しているかというメカニズムがわかっていなければ、正しく訳せません。そこで演習に先立って「経済とマーケットの関係」について僕がまとめたレジュメを受講生に配ったり、今の経済動向を説明したりするのです。これはいわば、経済・金融翻訳における”常識”です。その”常識”をふまえて、後半では課題の解説をしていきます。

 

このやり方は、基本的にどの講座でも共通です。経済・金融の知識といっても奥が深いですし、新しい内容もどんどん出てきます。一通りやっただけですべてを身に付けることは、まずできません。そこで、まずは先ほど行った”常識”に立ち返って新しい事象を学習する必要があります。学習には、新しく積み重ねていく部分と、何度も繰り返して知識を定着させていく部分の両方が必要です。漆塗りの手法でいえば2度塗り、3度塗りをして、完成に近づけていってほしいと思っています。

実務翻訳で必要なのは、
説明する英語

フェロー・アカデミーの実務翻訳、初級講座で使用しているテキスト『BETA(ベータ)』、も執筆しました。現在のテキストは改訂版ですが、実は初版は1988年に執筆したんです。先に申し上げたとおり、当時私はあらゆる分野の翻訳を受注して、大量に仕事をこなしていました。その中で、翻訳に受験英語は使えないということを身をもって感じていたので、それでは翻訳のための英語とは何なのか、それをいつか体系的にまとめたいという思いを強く持っていました。そんなときに、テキスト執筆のお話をいただいて、これは自分にとってもいいチャンスだと思い引き受けました。それまでしていた翻訳の仕事を半分に減らし、残り半分の時間をテキストの執筆に充てました。

 

英語を学ぶならひたすら英語漬けになることだ、とよくいわれます。私が学生時代に読んだ村上春樹さんのあるエッセイでも、日本人が英語を学ぶ方法論としてそのように書かれていました。ところが、それからしばらく後、アメリカに住むようになった村上さんの書かれたエッセイでは、あるとき家電製品が故障したので電気屋さんに電話してそれを英語で説明しようとしたら、日本語で言えば簡単な内容なのに上手くできなかったというのです。確かに学校で学ぶ英語や、ペーパーバックなど小説の中に出てくる英語には、あまりそういう説明に関する英語は出てきません。しかし実務翻訳で必要なのは、その説明する英語です。ただ英語漬けになるだけでは不十分だ。実務翻訳に必要な英語と日本語の対応を体系的にまとめようと思ったのが、テキストを作るときに基礎となった考え方です。

 

執筆するにあたり、まず自分がそれまでに仕事で翻訳した原文・訳文のデータの中から、何万という例文を抜き出し、それを整理、分類し、それぞれに特徴をまとめていきました。その結果、「因果・相関」「性質・内容」「状態・状況」などの分類項目が出来上がりました。これがテキストの項目になっています。

 

出版翻訳では、日本語→英語と英語→日本語に必ずしも互換性はないといわれます。それはそれぞれに異なる文化を持っているからです。しかし、実務翻訳では多くの場合この互換性が成立します。例えば、ある機械があってその作動方法を説明する場合、文化の違いは関係ありません。説明内容は同じになるはずで、英語と日本語それぞれにその内容が該当する表現があります。この考え方が正しければ、説明の英語と説明の日本語を体系的にまとめていくと、おそらく日本で初めての実務翻訳の基礎となるテキストができるんじゃないかと考えたわけです。

 

半年かけて出来上がったテキストは、体系をまとめ上げるという意味では、まずまず満足のいくものでしたが、取り上げた例文などはまだ改良の余地がありました。その後、1998年に大改訂をして、さらに2009年にひとつ上の講座として通信講座「ベータ応用講座」を加えて、現在に至っています。

 

テキストの特長は何といっても説明する文章を内容の項目ごとに分類しているところにありますから、その枠組みを生かしてほしいと思います。課題文を訳していると、冠詞や前置詞、あるいは専門用語といった細かいところも気になるとは思いますが、最も大切なのは内容に即した英語と日本語の対応というテーマ。細かい部分に気を取られすぎて肝心のテーマについて意識が向かわなければ骨格となる翻訳力が身につかないということになるでしょう。押さえるべきテーマをきちんと押さえることを最優先させることが大切です。

 

それから、受講生の方からのコメントを読んでいると、ネガティブ思考の人が多いように感じます。例えば、「点数が上がらない」「回を重ねても評価が上がらない」といったことを思い悩んでいる人が多いのです。この講座では、毎回新しいテーマを取り上げているわけですから、必ずしも前回よりも今回の成績が良くなるものではないので、そこを気にする必要はありません。それよりも、自分が何を間違ったのか、その結果どんな知識を得たのか、に喜びを見出してほしいと思います。

 

間違えるのは学習者の特権です。間違えることによって、正しいことを知り、伸びていくことができるのです。将来仕事をするようになってから間違えてはいけませんが、だからこそ、ここでたくさん間違えておくべきです。何度間違えても全部間違えなくなるまでやり続ければいいのです。

講師が提供できるのは、経験上見つけた最善と思われる方法論

自分が特定の分野に向いているか見極める一つの方法として、一般読者に向けて書かれた雑誌の比較的専門的な記事を読むことをお勧めします。例えば経済分野なら「月刊・文藝春秋」のような雑誌に掲載されている経済関連の記事ですね。それをきっかけとして、経済に興味が湧いたら、インターネット上の経済議論などを読み進めてみてください。たとえば2011年に東日本大震災がありましたが、その復興資源について、国債を発行すればいい、いや増税すべきだ、などさまざまな議論が飛び交いました。読むうちに興味が湧き、言葉や概念を調べながら読み進めていくことができれば、その分野の学習が苦にならない人だと思います。

 

翻訳をすると、自分が何を知りたいのか、何を知らないのかが見えてきます。われわれ講師は、いわばその見取り図を書く手助けをするのが仕事です。もちろん、そうした助けを借りずに独学でできる人もいるでしょうが、手助けが必要であればそれを活用するのもよいでしょう。

 

その際、大切なのが、自分なりの企画性と計画性をもって事に当たることです。以前、通信講座「実務翻訳<ベータ>」で優秀な成績を修めた受講生さんと対談をしたことがあります。その方は、「エクセルで訳文のデータベースを作って、いつでも引き出せるようにしていったら、いつのまにか最優秀者に表彰される成績になっていた」と言っていました。

 

「結局、翻訳はコツコツ勉強するしかない」という人がいますが、僕は違うと思います。コツコツやっているだけでは伸び悩んでしまうものです。飛躍的に伸びるためには、自分に合った、独自の方法を考え出すのがいちばんです。講師が提供できるのは、経験上見つけた最善と思われる方法論です。受講者は、それぞれが自分なりのアレンジを施して実践する必要があります。受け身ではダメです。アイデア豊かに、アクティブに学んでほしいと思います。

 

『BETA(ベータ)』では実務翻訳で使う書き言葉の英語と日本語の対応に関する体系をまとめましたが、いつかはさまざまな文書やメディアに使われているそれ以外の英語と日本語の対応についてもまとめたいと思っています。

 

例えば、僕は高校大学と映画サークルに所属し、自主映画を作っていた映画好きで今でも映画を観るのは大好きです。別に英語を学ぶために映画を見ているわけではありませんが、以前から映画の中で「この英語とこの日本語が対応するのか」と気づくことがあれば、私家版辞書のようにその表現の対応をデータとして収集しています。また英語の英文シナリオなどを読むとト書きと呼ばれる説明書きが入っていますが、実際に映画を見ながらこのト書きを読むと、説明しにくい動きや動作をどう英語で表現すればいいかがよくわかります。こうした具体的な動きの表現も学校ではなかなか学べません。こうした表現をまとめれば、英文の小説などを読む上でも人や物をイメージしやすくなりますね。それらの表現なども体系化できればいいなと思っています。

取材協力

吉本秀人さん

 

実務翻訳家。多種多様な経済・金融・ビジネス関連文書の翻訳を手がける。通学講座「実務基礎」と通信講座「実務翻訳<ベータ>」のテキスト『BETA』、ベータ応用講座「経済・金融」「契約書」のテキストを執筆。著書に『金融の英語』など。

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