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専門分野を持たない弱みを強みに変える

翻訳書を読んで感動した自身の体験がきっかけとなり翻訳を学び始めたという上原裕美子さん。
2006年に初の訳書が出版されてから、これまでに多数の翻訳に携わってきました。
そのジャンルは、エッセー集、ビジネス本、手芸本、タレント本など実に幅広く手がけられています。
幅広い分野をこなすのはなぜか――そこには専門分野を持たない"弱み"を"強み"に変える上原さんの戦略があるそうです。

翻訳ってすごく価値のあること

子どもの頃、本は大好きでしたが、英語に関しては特に得意科目というわけではありませんでした。そんな私が初めて翻訳に興味を持ったのは高校生のとき。子どもの頃から何度も読み返している大好きな本があって、それが翻訳書だったのですが、その話を帰国子女の友人にしたところ、原書をプレゼントしてくれたのです。ストーリーはすべて頭に入っていたので、原書でもすらすら読めました。その後で、改めて翻訳書を読んでみると、あの英文がこんなふうに訳されるんだ、と新鮮な感覚があり、またさらにその作品を好きになったんです。そのときです。翻訳ってすごいな、将来は翻訳家になりたい、と思ったのは。ただ、その時の熱はいったん冷めて、大学卒業後はごく普通に就職しました。

 

社会人になって、もう一度、今度は本格的に翻訳家を目指そうと思うきっかけがあったのですが、それもまた高校生のときと同じ、ある読書体験からでした。会社には2年半勤めましたが、そこで勤め続ける自分が想像できず、会社を辞めて1年間オーストラリアへ渡り、アルバイトやボランティアや旅をしながら英語を勉強していました。そのときに友人が日本から本を送ってくれたのです。フランス語で書かれた本の翻訳書でした。私はフランス語を読めませんが、もとの言葉がわからなくても翻訳書を読むと心にしみてくる、ということに改めて衝撃を受けました。翻訳ってすごく価値のあることだ、やっぱり翻訳をやりたい。そう思い、帰国後すぐにフェロー・アカデミーのベーシック3コースに通い始めました。

 

帰国後すぐなら仕事をしていないので、毎日を翻訳の勉強に費やすことができます。でも1年は少し長いかなと思いましたし、コースで3カ月やってみて、その後どうするか見極めればいいと思ったのです。分野については、翻訳に興味を持った経緯が出版翻訳で、自分に向いているのは小説の翻訳だと思い込んでいたので、実務や映像、また出版系でもノンフィクションなどには興味はなかったのですが、不遜にも「他の分野もあるなら、やってやってもいいかな」という感じで。今から考えると、若かったというか、何も知らなかったんだな、と思いますが。

 

受講してみて、最初の思いを見事に裏切られる3カ月でした。まず、自分が思っているほどには、実力もなければセンスもないんだ、ということを思い知らされました。それから、翻訳について何も知らなかったんだと気づきました。「翻訳=小説を訳す」ことだと思っていましたが、やってみると実務翻訳が思いのほか面白かったんです。またフィクションは叙情的で表現豊か、ノンフィクションは機械的でつまらない、という先入観があったのですが、それも間違いであることがわかりました。翻訳のスキルを”得よう”と思って通い始めたベーシック3コースでしたが、むしろ固定概念を”捨てられた”ことに意味を感じた3カ月でした。

 

もう一つ、この期間に私は自分の心と向き合おうと思っていました。結果的に、翻訳家への道は簡単なものではなく、自分はまだまだ実力不足だということがわかったわけですが、それでもやめようとは思いませんでした。翻訳家を目指す気持ちを固めることができた3カ月でもありました。

自分が体験していないことを訳すことは難しい

3カ月いろいろな分野の翻訳を勉強してみて、ドキュメンタリー系の文章の翻訳が好きだなと思い始めていたので、単科のノンフィクションの講座を受講することに決めました。また、すぐに翻訳の仕事に就くのは無理だとわかったので、勉強を続けながらできる仕事を探し、塾の英語講師を始めました。ノンフィクションの先生の下訳や、リーディングの仕事をしながら、なんとか出版翻訳の仕事につながらないか探っていました。

 

初めての訳書は、2006年に出版された『母と娘 ふたりの風景』(オープンナレッジ刊)というエッセー集です。下訳がきっかけで生まれた縁からお話をいただきました。30人が書いた短いエッセーをまとめた本です。短いものを訳すのは長いものを訳すのより簡単だと思っていた頃もあったのですが、実際に訳してみると、短いなかで書き手の雰囲気をつかんで訳すというのが大変で、苦労したことを思い出します。また私は「娘」の経験はありますが「母」の経験はなく、自分が体験していないことを訳すことがどれほど難しいかを改めて実感しました。

 

この本が出版された頃に、フリーランスの翻訳者として独立しました。いろいろと運や人脈に恵まれていたと思うのですが、その頃、知人を通して実務翻訳の仕事を紹介され、マーケティング会社の社内資料として海外の雑誌記事等を訳す仕事をするようになっていました。ブランドやマーケティングなど、訳す記事の内容も面白く、またコンスタントに依頼されたので安定的な収入にもつながり、非常にありがたかったです。その年の確定申告で、出版と実務の翻訳の仕事と、会社勤めの収入が五分五分になり、収入が今の半分になっても何とかギリギリしのげそうだと思えたので、この先、増やしていきたい翻訳の仕事に集中していこうと、思い切って会社勤めを辞めてフリーランスになる決心をしました。

 

最後に勤めていたのは翻訳会社だったので、フリーになったあとその会社からもチェックの仕事をいただきました。チェックは、仕事の内容自体が私にとっては大きな財産となっています。人が書いた訳文を直すことで、「訳の意味があっていればいいというものではない。文章が整っていなければ商品にならない」ということがよくわかったのです。これは実務翻訳でも出版翻訳でも同じです。分野の枠を越えて、自分が翻訳するときに常に気をつけるようにしています。

 

2冊目の訳書は1冊目と同じようなエッセー集だったのですが、3冊目は『Web2.0 ストラテジー』(オライリー・ジャパン刊)というビジネス書でした。実は、最初の2冊がやわらかめの文章だったので、意図的に方向転換を図りたいと思って、まわりの人に「かための文章を訳したい」とアピールしていたんです。やわらかめの本も好きなのですが、こういう路線の翻訳者という認識が固まってしまう前に、他のものも翻訳できる訳者になりたかったんです。以前、講座を受講していた夏目先生にご紹介いただき、この本を訳せることになりました。

 

それから『Small Giants』や『エコがお金を生む経営』などビジネス書を何冊か訳し、また別のタイプの本を訳したいと思っていたとき、今度は『キャメロン・ディアス Forever Girl』に出会いました。他にも、『キャス・キッドソンの世界 in Print』というインテリア本は、同じ出版社でリーディングの仕事をしていた縁から、声を掛けていただきました。そのシリーズで手芸の本にも何冊かたずさわっています。

 

基本的には、お話をいただいたものは可能な限り引き受けるようにしています。自分のフィールドになかったものを取り入れるチャンスですから。

 

私は、IT企業に勤めていた人のようにIT系の専門知識があるわけではなく、大学での専攻は英米文学だったので化学や医学といった専門分野があるわけでもありません。そういうバックグラウンドがないことが私の”弱み”ではあるのですが、それを逆手に取って、幅広い分野を網羅することで何でも訳せる翻訳者になれば、それは私の”強み”にできると思ったのです。人が本を読むのは、特にノンフィクション系の本の場合は、知識を得るためです。ということは読者にはその知識がないということ。同じように知識のない私がその本を理解し、理解したことを伝わるように訳せば、読者も同じように理解できるはずだ。それを私の強みにしよう。そう思いました。だから、ソフトなものもハードなものも、何でもできる翻訳者になりたいという気持ちがずっとあって、チャンスさえあれば経験したことのない分野をどんどん訳していこうと思っていました。

翻訳を仕事にするには
「翻訳は楽しい」と感じる気持ちが大事

ジャンルによって使う文体は変わってきますし、それはとても大事なことだと思っていますが、”訳し分けありき”で考えているわけではありません。これはこういう本で、こういう読者層だから、こんな文体で訳そう、と固めてしまってから訳すわけではなく、原書と向き合い、取り組んでいくうちに自然とある文体に収まる、という感じです。

 

フィクションでもノンフィクションでも、あるいは実用書でも、根本的なところは同じだと思っています。軟らかい内容の本だから軟らかい文章で訳すのではなく、その本が軟らかい文章を求めているから軟らかく訳す。他の本で違う文体を求められれば、それに応えればいい。そういう意味では、どのジャンルの本も、あるいは実務翻訳であっても同じスタンスでいけると思っています。

 

読者ターゲットも意識しますが、文体を決めつけたり縛られたりしないように気をつけています。新しい本を訳すときは、原書について書かれたレビューを読むなどして、原書の著者はどういう人で、読者層はどのような人か調べます。また、日本の市場ではどのようなジャンルになり、どのような人が読みそうかも考えます。でも、このビジネス書は若手サラリーマンが読む本、と視野を絞ってしまうのもよくありません。読者層を意識し、その人たちに適確に伝えつつ、新しい読者を引き込むことができればもっと素晴らしいと思っています。

翻訳を仕事にすると決めているのであれば、
戦略的に取り組むこと

翻訳は楽しいものです。仕事にしなくても、勉強するだけでも翻訳は楽しいです。ただ、仕事にしたいのであれば、楽しいだけではいけません。ある程度の量を訳し、スピードをつけるといった、ストイックな努力も必要です。それを踏まえたうえで、やはり最終的には「翻訳は楽しい」という気持ちがなければ仕事として続きません。楽しいだけではダメだけど、楽しくなければやっていけない。ちょっと矛盾するかもしれませんが、そう感じています。

 

それから、翻訳を仕事にという具体的な目標が決まっているのであれば、戦略的に取り組むことも必要です。一生懸命勉強をしてチャンスを待つだけでは、なかなかプロとしてデビューするのは難しいかもしれません。私の場合、あまり人付き合いが得意ではなく、営業が苦手だったので、リーディングを武器にしようと思い、実践しました。ただ、本を読むのは遅い方で、リーディングも最初は苦手だったんです。そこで、あるとき「今年はリーディング強化年間にしよう」と決めて、他の仕事をセーブしてもリーディングの仕事はなるべく断らずに受けるようにして、年間20冊以上のリーディングをしました。おかげで、その年の年収はガタンと落ち込みましたが(笑)。

 

翻訳の仕事はいきなり依頼されるということはまずありません。講師の方の紹介か、あとはリーディングから編集者との付き合いが始まってチャンスが巡ってくるというケースが多いと思います。

 

ただ、リーディングをした本の翻訳を依頼されるとも限りません。私も打率は低いほうで、これまで70冊くらいリーディングした中で、実際に訳したのは5冊くらいでしょうか。リーディングをすることで名前を覚えてもらえればいい、本は採用されなくてもシノプシス(レジュメ)はいいなと思ってもらえればいい、こういう考え方をする訳者なんだなと知ってもらえればいい、と思っています。

 

それに自分では選ばないようなジャンルの本をリーディングで読むことにより、この本は私に向いている、こんなジャンルを次は訳したい、というものが見つかったり、こういう本を編集者は選ぶのか、この出版社はこの系統の本が好きだな、といった情報が得られたりすることにもなります。時間が掛かる割に報酬の少ない仕事ではありますが、お金以上に知識のストックになるのがリーディングのよいところだと思っています。

 

今後は、まだ体験していないこと――すごく売れる体験をしてみたいです。でも、収入のためというだけではないんですよ。自分の訳した本が多くの人に受け入れられて、たくさんの人が読んでいる、そんな体験をしてみたいと思っています。長く読み継がれて重版されるとか、他の本に引用されるとか、そんな本を訳せたらいいなと思います。

 

もう一つは、重いテーマの本を訳せる、体力のある翻訳者になりたいと思っています。人種差別や貧困といったことをテーマにしたノンフィクションの翻訳書を読んでいると、読むだけでも辛い気持ちになってしまい、この本に何ヵ月も向き合った翻訳者はどれだけ大変だったか、と思うことがあります。内容が重いだけに、うまく翻訳されていなければ、読者は途中で読むのを投げ出してしまうかもしれません。読者を惹きつける力が文章にあるからこそ最後まで読んでもらえるんじゃないか、だとすれば、それは翻訳者として非常に価値のある仕事だ、と思うんです。そんな翻訳をするためには、心身共に体力が必要です。私もその日のために、体力をつけておこうと思っています。

取材協力

上原 裕美子(うえはら ゆみこ)

 

出版・実務翻訳者。訳書は『ラマレラ 最後のクジラの民』『壊れた世界で“グッドライフ”を探して』(ともにNHK出版)、『「無為の技法 Not Doing」(日本実業出版)、『みんなにお金を配ったら』(みすず書房)、『僕らはそれに抵抗できない』(ダイヤモンド社)など、多数。

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