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どんな分野も翻訳できる、「シンプル」という考え方

実用書から名言集まで幅広い文章を訳す、夏目大さんのインタビューをお届けします。
人とのつながりが好機となって翻訳を専業とすることができ、また自分の仕事の領域も広がったと言う夏目さん。
翻訳に対する考え方も必読です。

会社勤めのかたわら翻訳家を目指す

私にとって翻訳の文章は、子どものころから慣れ親しんでいたものです。世界名作文学全集のシリーズとか、マザーグースとか。とにかく本を読みあさっていました。それを読破してしまうと、今度は文章が書いてあるものなら手当たりしだいに読んでいったんです。大人向けに書かれた「暮らしの手帖」とか、子どもの育て方の本に至るまで、もう何でも(笑)。もちろん子どもだから完全に理解できる文章ばかりではないんですが、分かるところだけ拾い読みしていくんです。そんなことをしているうちに、なんとなく文章の起承転結みたいなものが見えてきたりして。いま思い返すとそのときの経験が、今の仕事のベースになっているのかもしれません。

学生時代は現代国語と英語が得意科目で、大学は英文科に在籍していました。翻訳にも興味はありましたが、当時の自分がそれを仕事にできるとは思えなかったので、とりあえずはソフトウェアの会社に就職しました。そこで翻訳会社に発注したドキュメントの訳文チェックもしていたんですが、上がってきた訳文を見ても納得いかないことが多くて。その訳文を直すためによく残業していたので、どれくらいの時間訳せば幾らもらえるのかという見当がついてしまい、翻訳を専業にしても食べていけるかも、と思うようになりました。あと、今の仕事をずっと続けるつもりはない、だけどいま辞めたところで職を転々とするばかりでロクなことがないんじゃないか、という若さゆえの焦りもありましたね。そういった思いに駆り立てられて、会社勤めのかたわら翻訳家を目指して勉強しようと決意したわけです。

最初は独学でスキルを磨こうと思いましたが、何をすればいいか分からず、手始めに英語そのものを勉強しなおしました。大学受験や英検の参考書を読んだり、タイムとニューズウィークを読み比べたり。ありとあらゆるアプローチで勉強して、オフの時間はずっと英語漬けになっていましたね。肝心なコンピュータ関係の仕事はあまり得意じゃなくて、職場では英語しかできないヤツと思われていたかもしれません(笑)。

翻訳会社に転職、苦難続きの営業職時代

そのあと、フェロー・アカデミーアカデミーの通信講座「マスターコース」で本格的に翻訳学習を始めました。まずはとにかく実績を作らなきゃと思い、自分にとってすぐ仕事に結びつきそうな分野として選んだのがコンピュータの講座でした。

講座を修了したのち、思いきって会社を退職。しばらくして貯金が底をつきかけてきたころに、いまの翻訳者ネットワーク「アメリア」の前身であるFMCを通じて翻訳会社の営業職に就くことができました。ところが翻訳業界に転職できたものの、自分には営業の仕事はまったく向いてなかったんですよ。書類を作らせたら書き損じばっかりだし、営業先に持って行く書類を会社に忘れて出かけるし、おまけに気分を落ち着けようと喫茶店に入ったら会社の人にバレて白い目で見られるし(笑)。もうとにかくすべてが裏目に出てしまう最悪の時期でした。でも翻訳の仕事のきっかけはその会社で見つけたんです。

ある日、翻訳部の人からコンピュータ関係の文書について聞かれ、原文を見たらまさに前職で関わっていた内容でした。その場で訳したら一目置かれたらしく、それからもときどき翻訳部の要請で手伝いに行ってましたね。

営業と翻訳のかけもちが大変になってきたある日、見積り作成でかなり大きなミスを犯してしまって、会社で大問題になったんです。本当にクビ寸前までいったんですが、そのとき翻訳部の部長がとりなしてくれたおかげであやうく難を逃れ、翻訳部へ異動になりました。それからはもう与えられた仕事を必死でこなしましたね。何の実績もない自分を信用してくれた部長には今でも感謝しています。

きっかけはいつも、人とのつながり

翻訳部でトライアル審査や登録翻訳者から来た訳文のチェックなどにも関わるうちに、あるクライアントの方が私のチェックした社員教育用マニュアルを評価してくれたんです。幸い個人で受け始めた実務翻訳の仕事もだんだん波に乗ってきたので、2年ほどお世話になった翻訳部を退職、ついに念願のフリーランサーになりました。1年くらい実務翻訳だけを続けていたら、ひょんなきっかけで出版翻訳デビューの話が舞い込んできました。さきほどのクライアントの方からパーティに呼ばれて、その席で偶然隣に居合わせた方が、Javaに関する本を翻訳しないかと私に頼んでくれたんです。さらに、同じ方を通じて別の出版社からJava以外のコンピュータ書籍も出しました。

その後もいろんなテーマの本を訳しましたが、イチローの本やエルヴィス・プレスリーの本などは、お世話になっていた編集者が別の出版社に移ってから依頼してくれた仕事です。編集者の転職が自分の領域を広げるチャンスになったわけですね。あと、オライリージャパンの訳書は、最初の会社で同僚だった人が頼まれた仕事を、忙しいからと私に回してくれたのがそもそものきっかけ。こうして思い返すと、いつも人とのつながりがきっかけになってるんですよ。本当に、人に恵まれたなと思いますね。

自分なりの「シンプル」を編み出す

翻訳をするときには、できるだけシンプルな視点で考えることにしています。よく「翻訳のコツ」と称して、原文にこう出てきたらこう訳す、という細かい法則がいくつも載っている本がありますよね。でもそういう法則っていっぱいありすぎて覚えきれないし、実際に原文を訳そうとすると例外だらけであまり応用が利かないと思うんです。だから、大ざっぱな例えですけど、詩を訳すときは「美しい言葉で訳す」、というふうに一旦シンプルな視点に立っておいて、あとは原文に応じて美しく訳すための方法を探していく、というアプローチをとるんです。もちろんフェロー・アカデミーの授業では、そのときの課題を訳すための具体的な方法論も講義しますが、受講生にはそれを通じて自分なりの「シンプル」を編み出せるようになってほしい。最終的には、私が教えたことを受講生が自分独自の言葉で語れるようになってくれたら理想的ですね。

この「シンプル」という考え方でいくと、どんな分野にも対応していけるようになるでしょうね。そのスキルは、言ってみれば万能ナイフみたいなものかもしれません。それも十徳ナイフのように原文ごとに違うナイフを使い分けるのではなくて、どんな原文も一つのナイフで切っていくイメージです。まあ、そのためにはよっぽど切れ味のよいナイフにしておく必要があるんですけど。実際私の場合はコンピュータの専門書にせよ、ボブ・ディランの詩集にせよ、特に違うやり方で訳しているという意識はないんですよ。

2つのポリシー

私にはどんな翻訳をするときも2つのポリシーがあるんです。1つ目は、いかなる文章も自分と同じ「人間」が書いている以上、どうにかしてその内容を理解できるんだ、ということ。いろんな文章に触れていると、話の展開のしかたにはいくつかのパターンがあると分かるんです。それを踏まえて、今度来た原文はこのパターンだな、と都度あてはめていけばいい。話のどこにポイントが置かれているのかも、しだいにカンがはたらいて分かるようになると思います。2つ目は、読者に自分の言いたいことが伝わるように文章を書かなければいけない、ということ。これはふだん日本語を使っている我々でも、なかなか難しいことですけどね。

翻訳の仕事で楽しいのは、打ち合わせのときと打ち上げのときですね(笑)。その間の翻訳作業自体は苦しいことの連続です。でも、ときどき翻訳中にふと嬉しくなる瞬間があるんです。会社勤めを始めた20代前半の頃は、周りの大人を見て「オレはこんなふうにはならない、何かでかいことを成し遂げてやる」なんてとんがっていたくせに、実際何をどうやればいいかは全然分からなかった。そんな若かりし頃の自分が漠然と憧れていた翻訳という仕事を、いまの自分はちゃんと実現しているんだ、そう考えると、なんか嬉しくなるんですよ。人生100%思いどおりにいった試しなんてないんですけど、以前よりも確実によくなっているな、という実感はありますね。

私にとっての最終目標は文学とポピュラーサイエンスの翻訳を両立すること。後者はもう叶っているので、あとは文学ですね。幅広い仕事を手がけてきたのは、この文学という目標に近づくためにいろんなアプローチをとった結果でもあるんです。そうそう、この翻訳者としての生活を一生続けて行くこともまた一つの目標ですね。

取材協力

夏目大さん
出版翻訳家。『タコの心身問題』(みすず書房)、『エルヴィス・コステロ自伝』(亜紀書房)、『探して!見つけて!はじめての元素図鑑』(河出書房新社)、『Think CIVILITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』(東洋経済新報社)、『リベラル再生宣言』『あなたの人生の意味』(早川書房)、『ダーウィン『種の起源』を漫画で読む』(いそっぷ社)、『南極探検とペンギン』(青土社)、『天才科学者はこう考える――読むだけで頭がよくなる151の視点』(ダイヤモンド社/共訳)、『ゴビ 僕と125キロを走った、奇跡の犬』『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』『世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』(ハーパーコリンズ・ ジャパン)『「男らしさ」はつらいよ』(双葉社)など訳書多数。

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