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匂いや手触りを感じられる翻訳を

出版翻訳家、芹澤恵さんのインタビューをお届けします。
出版翻訳を一生の仕事にしようと思い始めたとき、同時に抱えていた不安と焦り。そんな時に出会った恩師の言葉が、その後の支えになっているそうです。

子ども時代、憧れを抱いた翻訳の仕事

私が翻訳を初めて意識したのは、かなり小さい頃でした。『若草物語』や『赤毛のアン』を読んで、「外国の文学を日本に紹介する仕事があるんだな」とぼんやりと考えたことを覚えています。中学生になると今度は洋画にはまりました。「好きな映画をずっと見ていられる仕事は、映画評論家か字幕翻訳家かな」などと考えたりして。しかし、大学を卒業して社会人になる頃、時代はちょうど就職難。いろいろと考えた結果、教育実習でお世話になった母校で教職に就くことに決めました。そして、教師としてもっと英語を磨きたいとコミュニティカレッジに通ったり、いろいろと模索を始めるうちに思い出したのです。翻訳に興味があったことを。翻訳ってどうやって勉強すればいいんだろう。そこで初めてフェロー・アカデミーの門を叩きました。

 

憧れの映像翻訳家への道が開けるかと思い、フェロー・アカデミーの相談会に出かけていったのですが、そこで私の夢はまたたく間に打ち砕かれました。今のようにDVDやCS放送などない時代で、劇場映画の字幕の仕事は名の知れた翻訳家で十分だし、テレビの吹替も新人が入る余地はないと知ったのです。「人を描くことでは同じだから、出版翻訳を学んでみては?」とアドバイスを受け、もちろん本も大好きだったので、出版翻訳を勉強してみることにしました。

 

1年間、フェロー・アカデミーの通信講座で出版翻訳の基礎を学びました。1人のトレーナーによる担任制で、修了まできっちり面倒見てくれるということだったので安心感がありました。アドバイスは具体的で、ポイントを的確に押さえていてわかりやすく、なおかつ褒め上手でした。職場では厳しく指導されていましたから、この頃は勉強が楽しくてしょうがなかったですね。ただ、次の1年は、まったく違う状況になりましたが。

真っ赤になるまで直された日々

通信講座が終わる頃、当時ブームになっていたロマンス小説のトライアルを受けたのですが、結果は不合格。とはいえ、どうやら人手不足だったようで、プロダクションの方のチェックを受けながら翻訳をさせてもらうことになりました。ある程度の範囲を翻訳したらプロダクションに持って行って赤字を入れてもらう。赤字を反映させて、また次の部分の翻訳に取りかかる、という繰り返しです。通信講座と違い、一人前でないとはいえ、一応仕事です。まずは、翻訳する分量の多さに圧倒されました。ただ、当時の私は翻訳するスピードが速かったので、量はこなしていたと思います。キャリアを積んだ今よりも、新人の頃のほうが翻訳スピードが速かったのはなぜか。それは訳すバリエーションを知らず、迷いがなかったからです。”He said,”と出てきたら「彼は言った」、もうそれしかありませんでしたから。

 

このとき、めいっぱい赤字を入れられて、本当に多くのことを学びました。”He said,”は、訳さないことも可能だと知ったのもこの頃です。ロマンス小説というのは、究極のエンタテインメントです。読者サービスに徹して訳すことを徹底的に叩き込まれました。ロマンス小説の訳し方マニュアルもあったんですよ。例えば「読者の夢を壊すような表現はしない」「わかりにくい日本語は使わない」等々。この頃教えていただいたことは、仕事を続けていくうえで、とても参考になっています。

私の翻訳人生を支える恩師の言葉

2、3冊チェックを受けながら訳した後、チェックなしで一人前の翻訳者として仕事をいただけるようになりました。ただ、残念なことにロマンス小説は徐々に下火になり、仕事そのものがなくなっていったのです。この頃はすでに翻訳の面白さに目覚め、一生の仕事にしたいと思い始めていたので、この状況に焦りました。そんなとき、フェロー・アカデミーで新しくミステリ翻訳の講座が開講して、ミステリも大好きな分野でしたし、ちょうど女探偵ものの人気が出てきた頃で興味もあり、受講することに決めました。これが恩師である田口俊樹先生との運命の(!)出会いでした。

 

結局、田口先生の講座には5年間ほど通い、3年目くらいからは先生に紹介していただいた仕事をするようになりました。先生からは多くのことを学びましたが、その中でも心に残っている言葉を2つご紹介しておきます。1つは、講座が始まって間もない頃だったと思います。「翻訳は才能がないとできないものでしょうか」という私のつぶやきに先生が答えてくれたこの言葉です。

 

「才能は最後のレベルで問題になるもの。そこに達するまで努力を続けられれば、まず翻訳者としてものになると思うよ」

 

この言葉は今でも私の心の支えになっています。

 

それからもう1つは、「翻訳はサービス業だ」という言葉です。誰が、何のために読むのか。翻訳者はそれを一番に考えて訳さなければならない、ということ。私がやっているのはエンタテインメントの翻訳です。読者にストレスを感じずに楽しんでもらうことが使命なのです。これはどんな翻訳でも変わらない基本の部分。ミステリ、ロマンスと分野は違っても、もっと言えば、実務翻訳の分野でも、読み手が何を求めているのかを考えて訳すというのは、共通する”翻訳の根っこ”ではないかと思います。

翻訳とは、ねばり強く原文と戯れる作業

ロマンス小説の翻訳をはじめた頃と異なり、恥ずかしながら、私の翻訳スピードはかなり遅いです。納得のいく訳文が見つかるまで先に進めない性分なのです。書いては消し、書いては消し、1つの文章に丸1日掛けてしまったこともあるくらいです。以前は、行き詰まると翻訳をいったん止めて、気分転換とばかりに、洗濯や料理をしてみたこともありますが、それは意味がないとわかったので、ひたすら我慢をして、原文と戯れることにしています。

 

引っかかり方にもいろいろありますが、言葉が出てこないときは辞書を繰って探したり、場面がよくわからないときは似たような場面が出てくる本を引っ張り出してきて読んだり、リズムが出てこないときは好きな作家の本――私の場合は藤沢周平の時代小説が多いのですが――を読んで言い回しを盗んだり……。どんな作品でも、だいたい毎回こんな調子ですので、「私は翻訳者に向いていないのでは」と落ち込むこともしばしばです。だって、翻訳は時間をかけたからお給料が多くもらえるわけじゃないですからね。ただ、締切や収入の問題を抜きにすれば、私自身はその作業をすごく楽しんでいるんです。見つからない言葉を探す作業が楽しくてしょうがない。翻訳そのもので退屈したことは、まだ一度もありません。

 

昔に比べて翻訳書が売れなくなっていますが、私はその責任の一端は翻訳者にもあるんじゃないかと思うことがあるんです。さらりと字面だけを訳す優等生の翻訳がそれでよしとされてしまっている現状があり、そういうものが翻訳の魅力を半減させているんじゃないかと。

自省の念も込めてですが、匂いや手触りが感じられない翻訳はさびしいと思います。私は翻訳者として、自分自身が原書を読んで得た感動を、正しく読者にわたせるような力をつけていきたいと思います。もっと具体的に言うと、英語を正しく読む力と、読み取ったものをふさわしい日本語に置き換えていく力を増やしていきたい。端的に言えば、翻訳がうまくなりたい。面白い作品はどう訳しても面白い。まずまず面白い作品を、とても面白い作品にできたら、エンタテインメントの翻訳者として本望だと思います。

取材協力

芹澤恵さん

文芸翻訳家。『フランケンシュタイン』(新潮文庫)、『ハオスフラウ』『密林の夢』(早川書房)、 『フロスト警部』シリーズ、『地球の中心までトンネルを掘る』(東京創元社)、『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』(光文社)、『夜風にゆれる想い』(二見書房)、『クラッシャーズ 墜落事故調査班』(文藝春秋)、『世界を変えた100人の女の子の物語』(河出書房)など訳書多数。

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