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ドイツかぶれが高じて、翻訳者の道へ

中高生の頃に読んだ漫画がきっかけでドイツにのめり込んだという吉川美奈子さん。
ドイツ語の実務翻訳を経て、現在は映像翻訳者として活躍されていますが、どのような経緯があったのか、お話をうかがいました。

ドイツを極めたい!

中学生の時に池田理代子さんの漫画『オルフェウスの窓』にはまり、今でもセリフを空で言えるほど(笑)、何度も読み返しました。20世紀初頭のドイツ、オーストリア、ロシアを舞台にした、第一次世界大戦やロシア革命が盛り込まれている壮大なスケールの物語です。高校生になるといっそうはまっていたので、大学受験は大変でした。「勉強しなきゃ、でも読みたい」と誘惑に打ち勝つのに必死でしたね。この漫画の影響で、ドイツに行ってみたい、ドイツのことをもっと深く知りたい、と強く思うようになり、大学はドイツ語を専攻しようと決めました。

 

大学3年生のときに、語学研修で初めてドイツを訪れました。大学に入ったら学業以外にも誘惑が多いので、1、2年の頃は、サークル活動をしたり、友だちと遊んだりとふらふらしていたのですが、このドイツ旅行がきっかけで、「やっぱり私にはこれしかない。ドイツを極めよう」と心が決まりました。卒業後は、とにかくなんとかドイツに住めるような仕事を探そうと思いました。

 

大学4年生になり就職活動を始めたころ、先生からドイツ勤務の求人をご紹介いただきました。これしかないと応募したところ、採用が決まりました。日系の金融機関で、勤務地はデュッセルドルフ、2年間の契約で渡独しました。仕事内容は、パソコンが今ほど普及していない時代だったので、上司が書いたレターをタイプライターでミスをしないように清書する、といったようなことでした。日系企業なので日本人もいますが、基本的にドイツ人の中で暮らすので、このときの体験は非常に貴重でした。いま私がまがりなりにもドイツ語の仕事をしていられるのは、あの2年間があったからだと思っています。現地の慣習に従って土日の休み以外に年間30日の休暇がもらえたので、ドイツ中をくまなく旅行することもできました。本当にドイツおたくだったので、隣国など行かずに、ひたすらドイツです(笑)。貧乏旅行をたくさんしました。

 

特に東ドイツには、ビザをとってせっせと通いました。私がドイツに行ったのは1986年で、ベルリンの壁が崩壊したのが1989年、東西ドイツの統一がその翌年ですから、まだ東西が分断していた頃です。“カルチャーショック”というのはこういうことかと身をもって体験しました。初めて西ドイツを訪れたときとは比べものにならない感覚です。生きて帰れるのだろうか、来なければよかった、という思いに駆られたことを覚えています。でも、それ以上にもっと知りたいという気持ちのほうが強く、その後も何度も訪れることになるのですが。

 

ドイツでの2年間を終えて帰国後、ドイツ系の金融機関に職を見つけることができました。勤務地は日本ですが、ドイツ人社員も多く、私の仕事は半分が営業関係、半分がドイツ人社員の雑用係といったところでした。社内の公用語は英語ですが、私はドイツ人社員とはドイツ語で話していました。この会社には3年間勤めました。

 

いずれはドイツ語の翻訳を仕事にできればいいなと思っていたあるとき、出版社に勤める友人からドイツ語の書籍の下訳を頼まれて、もちろん二つ返事で引き受けました。ドイツに暮らした経験もあるし、仕事でも5年間ドイツ語を使っていたので、「下訳くらいならできるだろう」という軽い気持ちでした。ところが、これが大きな間違いでした。ドイツ語の意味はわかるけれども、それを日本語で表現することができないんです。このときは「下訳だから、それでいいよ」と言われましたが、このままでは翻訳者として仕事を受けるなんて到底できません。これは勉強しないといけないと気づき、翻訳の講座を受講することを決めたんです。

 

いろいろと事情があって通学はできなかったので、通信講座を1年間受講しました。出版と実務のあらゆる分野の課題をドイツ語から日本語に翻訳する講座でした。私にとっては理解した内容をいかに日本語で表現するかが課題だったので、とても勉強になり、1年間やり通して少し自信がつきました。

 

そろそろ仕事を探したいと思っていたところ、新聞の求人欄にドイツ語の翻訳者募集の広告を見つけて、応募しました。小さな翻訳会社だったのですが、トライアルを受けて合格し、仕事をいただけるようになりました。ドイツで発行されている技術系月刊誌の記事翻訳だったのですが、毎月定期的に仕事があり、納期がゆるやかで技術監修もついていて、わからないところは監修の方が説明してくれるので、非常に勉強になりました。

 

ドイツ語以外にも英語から日本語の翻訳依頼もあり、英語も復習して対応しました。そのとき痛感したのが、「ドイツ語ができるのは有利だけれど、ドイツ語だけというのは厳しい」ということでした。ドイツ語だけだと、やはり仕事の量が限られてしまいます。私はドイツ語を専門にしつつ、英語の仕事も受けられるという2本立てでいくことができたので、安定的に仕事を得ることができたのだと思います。

映像翻訳の仕事を志すきっかけとなった3つの作品

映画は昔から好きで、ドイツに住んでいたときも映画館によく足を運びましたが、観ていたのは生粋のドイツ映画ではなく、ハリウッド映画のドイツ語吹替版でした。ハリウッド映画を楽しみつつ、ドイツ語のヒアリングの勉強になる、これは一石二鳥だと思い、毎週のように通っていました。

 

あの頃は映画というとエンタテインメント性のあるものだと思っていたんですが、その思いを覆す出来事がありました。ドイツに暮らしはじめて間もない頃、テレビでドイツ映画の『ブリキの太鼓』をやっていて、それを観たんです。後にノーベル文学賞を受けることになるドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した作品で、映画化されたのは1979年でしたので、それから約10年後にテレビで放映されていたんですね。根底にあるテーマは戦争で、非常に難解で、暗くて、奥が深い映画です。「こういう映画もあるんだ」と強い衝撃を受けました。ナチスという負の歴史、それに対してドイツ人が持つ贖罪の気持ち、そういうものを表す映画もあるのだということを初めて知りました。私にとってのドイツ映画の原点が、この体験です。実際に映画の仕事をするまでに、そのきっかけとなるような出来事が3つあったのですが、そのいちばん最初の出来事がこれでした。

 

日本に帰国して、これもテレビで放映されていたのですが、1920年に制作されたドイツのサイレント映画『カリガリ博士』を観て、再びショックを受けました。いわゆる怪奇もので、人殺し、狂気、ホラーなど、いろんな要素が詰め込まれているのですが、革新的で芸術としても評価が高い作品です。「複雑怪奇な世界を映画で表現するとこうなるんだ」と衝撃を受けて、録画したものを何度も何度も繰り返し観ました。このとき、「ドイツ映画の歴史を勉強したい」「いつか映画の仕事がしたい」と思いました。ちなみに、1920年代のドイツは、ハリウッドにも多くの作品を輸出していたほど映画産業が発達していたんですよ。

 

3つめのきっかけとなった出来事があったのは、実務翻訳をしながら、子育ても忙しかった時期だったと思います。日本に住むドイツ人の友人が、音楽家シューマンと妻クララの愛の半生を描いた『哀愁のトロイメライ』という作品のビデオを貸してくれたんです。これも何度も見返した映画で、下訳時代にもこの作品に携わる機会があり、勝手に運命的なものを感じています。

 

いつかは映像の仕事をしたいと思いつつ、実務翻訳を続けて6年くらい経った頃、翻訳関係の雑誌に掲載されていた求人広告で、字幕翻訳家の方が下訳者を募集していたんです。字幕の経験はないので、おそるおそる応募したのですが、できるかどうかではなく、「やりたい」という気持ちがわき上がってきて、「やらせてください」と言っていました。このとき、映像翻訳の経験はゼロでした。それから2年間、当時は手書きだった先生の原稿をワープロで打ったり、口述筆記したりすることから始めて、そのうち字幕翻訳をやらせてもらうようになり、見よう見まねで字幕翻訳のルール、コツなどを覚えていきました。とても勉強になり、やはり映像翻訳でやっていきたいという思いが高まりました。

映画に映り込む「ドイツ」を感じながら翻訳する

2年間アシスタントをしていたときにお世話になった方に声を掛けていただき、映画祭上映作品の字幕をつけたのが、映像翻訳として初めての仕事です。中国語の作品で、英語を介して訳すという仕事でした。

 

次に別の制作会社から声を掛けていただいたのが、念願だったドイツ語から日本語への字幕翻訳の仕事でした。実はドイツでは今も続いている長寿番組で、アウトバーン(ドイツの高速道路)を舞台に活躍する高速警察隊を描いた刑事ものです。VHS販売用の字幕翻訳でしたが、1年間で2シーズン分を全部1人で訳しました。最初の頃は制作担当者の方にたくさん直されて、厳しくご指導いただきました。とても勉強になったと感謝しています。

 

単発の作品を受けていた頃は、実務翻訳と両立させていたのですが、このドラマの仕事が決まったときに両方をやるのは無理だと思い、実務翻訳のほうは友人の翻訳者さんにお願いし、この段階で映像翻訳一本に絞りました。2000年のことです。

 

初めて自分の名前でドイツ語の作品を訳したときは、魂が震えました。涙が出るほど嬉しくて、「これだ! 絶対にこの世界で生きていこう」と思いました。作り手が意図しているか、していないかは別にして、映画にはその国独自のさまざまなものが映りこみます。ドイツ映画であれば、ナチス、東西冷戦などがテーマとして取り上げられることが多いのですが、そこにはドイツ人ならではの考え方やメンタリティが映し出されています。それを感じながら翻訳することに喜びを感じます。

 

私がいただく仕事の7~8割はドイツ語から日本語への翻訳ですが、英語から日本語、あるいは英語以外の言語の作品を英語やドイツ語を介して日本語に翻訳するケースもあります。ドイツ語以外の作品も、お話をいただければ全力で取り組むようにしていますが、ただ私としては、やはりドイツ語をメインに、という気持ちを強く持っています。

 

ドイツの作品を翻訳するとき、ドイツの周辺知識がとても重要で、ドイツの政治、歴史、時事問題などに精通していないとなかなかうまく訳せない、ということを常に感じています。同じように、アメリカの作品にはアメリカの、イギリスの作品にはイギリスの知識が必要なはずですが、私はドイツ語圏以外の国について、そこまで知識がありません。幸い、これまでの仕事でクレームを受けたことがないので、求められたときはお応えするようにしていますが、やはり自信を持って訳せるのはドイツの作品ですから、今後もこれを柱にしていきたいと思っています。言外にドイツならではの要素が込められていることもしばしばです。私はドイツ語に込められたニュアンスを読み取り、少しでもそれが伝わるような日本語にしたいと、いつも考えながら訳しています。まだまだ未熟で、なかなかそれが難しいのですが。

日本ではまだ知られていない東ドイツの映画を紹介したい

これまでに訳した中で、特に『ハンナ・アーレント』は強く印象に残っています。難しい内容の映画だったのですが、異例のヒットを記録しました。多くの人に観ていただけて嬉しかったのはもちろんですが、その前に、とても難しくて、泣きそうになりながら訳したということで印象に残っています。

 

この作品の翻訳のお話をいただいたとき、まず主人公のハンナ・アーレントは哲学者なので、彼女が書いた本を読んでみようと思いました。日本語に翻訳された本を読んだのですが、あまりにも難しく理解できなくて……。訳し始めたのですが、ドイツ語の意味がわかっても、そこに込められた本当の意味がわからないから、日本語にできないんです。もう、締切に間に合わないんじゃないかと考えたら神経が高ぶってしまって、眠れない夜を何度も経験しました。とにかく、彼女に関連する本で、取り寄せられるものはすべて取り寄せて、片っ端から読みました。知り合いの大学教授にお願いして解説していただいたり、考えられる限りの努力をして、なんとか訳し終えたという感じです。訳し終わってからも「本当にこれでよかったのだろうか」と不安で、翻訳にクレームが付く夢を何度も見ました。作品は、直球勝負の真摯な内容です。このような作品にたくさんの方が注目してくださったということが、とても嬉しかったです。

 

日本で公開されるドイツ映画というと、ナチスの時代を描いたものが多いイメージがあるかもしれませんが、ドイツにもコメディ映画はありますし、今の時代の恋愛映画もあります。ただ、実際にナチスをテーマで作られる映画が多いというのも事実ではあります。ナチスのものを作れば話題になる、という考えで作る監督もいるかもしれませんが、それよりも歴史の事実を風化させてはいけないという使命感から作る監督が多いと思います。ドイツ人は徹底的に歴史教育を受けています。だから戦争を知らない若い監督でも、歴史についてきちんとした考えを持っている。このテーマは、ドイツ人だけではなく人類のテーマとして世界に発信し続けなければならないという使命感を持って、ドイツの負の歴史を描き続けているのだと思います。どうして自虐的なまでにこのテーマを描くのだろうと思うこともありますが、奥が深いテーマですので、いろんな角度で描けば描くほど監督の創作意欲も刺激されるのではないでしょうか。

 

一方で、日本ではほとんど知られていないのが東ドイツの映画です。東ドイツの映画というと国策映画と思われがちなのですが、意外とそうではなくて、監督らが当局の検閲ぎりぎりのところで自分たちの言いたいことや描きたいことを表現しているんです。一歩間違えれば逮捕されたり、職をはく奪されてしまう。そんな危険を冒してまでも何を描きたかったのか。あるいは実際に“干されて”しまい、数年後に許されてから撮った作品がどのようなものだったのか。いつか紹介できたらいいなと思っています。

映像翻訳者を目指すなら、ミーハーであれ!

言語にかかわらず、翻訳を学習中の方に私の経験からお伝えしたいのは、人との出会いを大切に、ということです。私が困ったときや落ち込んだときに助けてくれるのは、映像翻訳者の友人や、ジャンルが違ってもドイツ語の翻訳をしている友人たちです。定期的に会って情報交換していますし、ただ会って話すだけで刺激を受け、モチベーションも高まります。皆さんも、翻訳学校のクラスメートなど、出会った人とのつながりを大切にしていただきたいなと思います。

 

それから、これは特に映像翻訳者を目指している方に向けてですが、ミーハーであることも大事だと思っています。私は、飛行機に乗ると人目もはばからず勉強のためにと、ゴシップや芸能ニュースばかりを扱っている日本でいうスポーツ新聞のようなものをもらうようにしています。どんな表現や語彙が使われているのか、けっこう勉強になるし、映画のジャンルは多岐にわたるので雑学が役に立ちます。表現や語彙の勉強は付け焼き刃では間に合いません。高尚ではない記事にも日頃から目を通しておくことが大切だと私自身も痛感しています。

 

またドイツ語の映像翻訳を仕事にしたいと思っている方は、ドイツの歴史、特にナチスの時代の歴史を学んでおくとよいと思います。私自身、昔はミリタリーが苦手だったのですが、『ナチ・ドイツ軍装読本』などを買って読み、素人ながら何とか知識を頭に入れました。軍服の襟章を見ると階級がわかりますが、日本語には敬語があり、上下関係をセリフに反映させなければならないので、そういう知識は重要です。最低限の知識や仕組みは知っておいたほうがいいと思います。

取材協力

吉川美奈子さん

上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。大学卒業後、ドイツにある日系金融機関に2年間勤める。帰国して、東京にあるドイツ系金融機関に3年間勤めた後、1992年よりフリーランスでドイツ語の実務翻訳を始める。1998年ごろから映像翻訳をはじめ、2000年からは映像翻訳のみに従事するようになる。主な字幕翻訳作品には、『ヒトラー暗殺、13分の誤算』『あの日のように抱きしめて』『ぼくらの家路』『ハンナ・アーレント』『さよなら、アドルフ』『東ベルリンから来た女』『コッホ先生と僕らの革命』『PINA/ピナ バウシュ 踊り続けるいのち』などがある。

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